第15話 バベル

「……あれからもう三百年。ずっとわたしはバベル様に従ってきたの」


「……そうか」


 ため息とともに俺はうなずいた。なんか想像していたのとバベルは違う。残忍無惨な吸血鬼ではないのかもしれない。


 でも……。


 俺はあらためてポラーの顔を見上げた。綺麗な顔をしているが、三百年の間、いったいどれほどの数の人々の血を吸い、下僕としてきたのだろうかと思ったのだ。


(ヴァンパイアだから、当然血を吸うが、ポラーは一人たりとも下僕にはしていねえよ)


 バベルが俺の疑問にこたえた。


 一人たりとも?


 俺は内心首を傾げた。ヴァンパイアは血を吸い、対象者を下僕のヴァンパイアと化す。そうではないのか?


(血を吸えばヴァンパイアになるってもんじゃねえんだよ。期間をおいて、何度も吸うことが必要なんだ)


 じゃあ、ポラーは同じ人間を何度も吸血しなかったんですか?


(そうだ。ポラーは一度しか同じ人間に対して吸血行為はしていない。だからポラーに眷族は一人もいないんだ)


 一人も?


 俄かには信じられなかった。どうして同じ人間に対して一度しか吸血行為をしなかったのか。


 それはどうして?


(わからねえのか。ポラーは誰もヴァンパイアにはしたくないんだよ)


 そうか。


 俺はポラーを見上げた。冷たい美貌であるが、優しい目をしていることに気がついた。


「何?」


 俺の視線に気づいてポラーが首を傾げた。


「いや」


 俺は小さく笑った。それから言葉を継いだ。


「あらためてポラーは綺麗だなと思ってさ」


「な、な、な、何をいっているの? そ、そ、そ、そんなこといっても別に何とも思わないんだから」


 顔を真っ赤にしてポラーはいった。ひどく動揺している。


(相思相愛ってやつか?)


 嘲弄するようなバベルの声。俺はバベルに呼びかけた。


 バベルさん。


(何だ?)


 すみません。


 俺は謝罪した。


(なんだ。いまさら謝るなんてよ。俺に喧嘩をふっかけたこと、後悔してんのか?)


 いいえ。後悔してないです。バベルさんが人間を家畜のように血を吸うヴァンパイアである以上、いつかぶっ倒します。でも、ポラーに関しては謝ります。それからありがとうございます。ポラーに白パンと暖かいベッドを与えてくれて。


 俺はいった。バベルは何もこたえなかった。


 そして、やがて俺はたどり着いたのだった。バベルのもとへ。



 俺は愕然として瞠目した。眼前の光景を見て。


 迷宮の最深部。そこにバベルはいた。


 透けるように肌の白い貴族的な顔立ちの男だ。寒気のするほど美しい男である。


 若いようにも老いているようにも見える。年齢不詳の顔立ちといっていいだろう。実際の年齢は千年を超しているに違いない。


 身につけているのは黒いズボンだけだ。上半身は裸である。


 どちらかといえば体つきは華奢といっていい。筋肉質な感じはまるでない。


 が、弱々しさは皆無だった。むしろ底知れない力強さを感じる。息もつけないような圧倒的な迫力をバベルははらんでいた。


 が、俺は驚いたのはそんなことではなかった。バベルの様子である。


 片足をたてた姿勢でバベルは座り込んでいるのだが、その身体に鎖が絡みついているのだ。


 鎖の数は六。端は地に消えている。


「あ、あの……バベルさんですか?」


 ポラーに抱かれた格好で俺は訊いた。訊かずにはいられなかった。あまりにも異様な光景だったからだ。


「そうだ」


 バベルはニヤリとした。


「ようやくご対面というわけだな」


「はあ。あの……早速で申し訳ないのですが、助けていただきたいのですが」


 俺は請うた。鎖を巻きつけるなんてきっとやばい奴だろうから、さっさと逃げ出した方がいいに決まっているからだ。


「なんだ。いやに急ぐじゃないか。不死者には時間は関係ないだろ」


「それはそうなんですが……」


 俺ははこたえに窮した。まさかやばい奴からさっさととんずらしたいなどとはいえない。


「このままポラーに抱っこされたままなのはあれなので、ともかく動けるようになりたいんです。死霊魔術を教えてください」


「ふふん」


 鼻を鳴らし、バベルは口をゆがめた。


「まあ、いい。確かにその格好じゃあ様にならないからな。いいだろう。死霊魔術を教えてやる。まずは魔力を感じることからだ」


「魔力を感じる?」


「そうだ。身体に流れる魔力を感じとる。それができるようになって初めて魔術が使えるようになるんだ。やってみろ」


「やってみろったって……」


 具体的にどうやっていいのかわからない。するとバベルが目をポラーに転じた。


「ポラー。やれ」


「はい」


 ポラーがうなずいた。そして顔を伏せた。


「えっ」


 俺は驚いた。ポラーの顔が近づいてきたからだ。


「ポラー、あの」


 俺は声を出せなくなった。ポラーの唇が俺のそれをふさいだからだ。


 柔らかな感触。あまい吐息。迂闊にも俺は陶然となった。


「ポラー。魔力を」


 バベルが命じた。するとポラーの吹き込む吐息に熱いものがまじった。


「うっ」

 俺はうめいた。ポラーの吹き込んだ熱が血管にのって身体を巡り始めたような気がしたからだ。


「それが魔力だよ」


 バベルはいった。

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