第6話 タチアナ

 目を開けるとそこには星空があった。まるで今にも零れ落ちて来そうな程に星々がはっきりと見えた。こんなに綺麗な星空は初めて見た。

 ここはどこだろう。私は何をしているのだろう。

 辺りを見回す。どうやら私は地面に寝かされているようだった。横を向けばすぐ傍に地面があり、背中で小石がじゃりじゃりと音を立てている。

 視界にフードを被った誰かが現れた。

「おはようございます。まぁ、まだ夜なんですけどね」

 誰? 挨拶されたので、とりあえず挨拶を返す。

「……おはようございます」

「どうですか? 起きられますか?」

 手を差し出されたので掴むと身体を起こすのを手伝ってくれた。私の身体には薄いブランケットが掛けられていた。近くには焚き火があり、焚べられた木がパチパチと音を立てている。

 誰かさんがフードを脱ぐ。癖毛の黒髪を肩に掛からない長さまで伸ばした20代くらいの男だった。どこか安心する温和な顔立ちをしている。

「僕はハクア=オーウェンと言います。旅の魔法使いです。あなたのお名前は?」

 名前。私の名前……。

 すぐに頭に浮かぶのは1035番だ。けれど、そんな番号は名前なんかじゃないと否定する私がいる。1035番以外の名前を覚えている私がいる。

「…………」 

「ふむ、そうですよね。突然現れた怪しい男に警戒しますよね。では、僕に名前を教えてもいいと思ったときで構いませんよ」

 私が黙っているので名前を教えたくないのだろう、と彼は思ったようだ。

 確かにこのハクアという男は怪しく見える。優しげな顔をして、言葉遣いも非常に丁寧であるのだけれ、それが余計に怪しさに拍車を掛けている。ただ、警戒するほどではないとも感じる。こういう人を表す的確な言葉があったはずだ。……そう、胡散臭いだ。

 ハクアは焚き火の傍に置いてあるポットを取り、手にしているカップにお湯を注いでいる。そしてスプーンでしばらくかき回すと、それを私に差し出した。

「どうぞ。お口に合うかは分かりませんが、身体は温まりますよ。熱いですから気をつけてください」

「ありがとう、ございます」

 金属製のカップを受取り、おずおずとお礼を言う。カップはそこまで熱くなく、寧ろ心地よい温かさだ。中は黒い液体で満たされている。ひとまず一口頂こう。

「うっ」

 蒸れた枯れ草の匂いがする。草刈りの次の日が雨で、さらに次の日が快晴だった夏の日みたいな。

「あはは。すごい匂いですよね、それ」

 ハクアは楽しそうに笑っている。いたずらが成功した子どものようだ。

 あ。匂いはすごいけれど、味はそんなに悪くない。仄かな甘味が口に広がる。お腹の中がじわりと温まってくる。

 液体の表面に映る顔が目に入る。幼い顔、オレンジ色の髪、赤い瞳、それは紛うことない私の顔なのだけれど違和感がある。カップを持つ手についてもだ。私の手はこんなに小さかっただろうか?

 混乱する。記憶と現実の齟齬に頭がクラクラする。

 駄目だ。順番に思い出して記憶を整理しよう。

 私の名前は……立花、水琴。年齢は……29歳。私はネコが大好きな……会社員。そうだ! 会社帰りに、私は、確か、ネコを助けようとして…………死ん、だ? じゃあ、今の私は?  立花水琴じゃない? ……ううん、確信は持てないけれど私は私だと思う。……もしかして、これは生まれ変わりというやつなのかな?


「ところで、あなたは『学びの家』の子なのでしょうか?」

 ハクアの言葉に私は思考の渦から開放され、はっとする。

「……すいません、分からないです。『学びの家』とは何ですか?」

 それぞれ単語の意味から想像は付くけれど『学びの家』自体は聞いたことがない。

「ああ、そうか。中にいたのなら分からないですよね。研究所と言えば分かりますか?」

 研究所という言葉にピンとくる。私がいた所が恐らくそうだ。あそこは『学びの家』というのか。

「はい。私は研究所、あなたの言う『学びの家』にいました」

 そうだ。私は研究所にいた。研究所で暮らしていたのも間違いなく私だ。こちらの記憶は立花水琴の記憶よりもはっきりと思い出せる。確か、私は大きな実験をして、全身に激痛が走って、気が付いたら事故が起きたと言われて……、それでその後、『廃棄処分』と言われて……。

「やはりそうですか。では、あなたは……。どうかしましたか?」

 私はポロポロと涙を流していた。 

「え? あっ……は、いえ。何でも、ありません」

 ハクアはローブの裾で私の涙を拭った。

「何でもなくはないでしょう。研究所では辛い目にあっていましたか?」

「いえ、研究所での生活はそんなに辛くはありませんでした。物心付く頃には研究所にいて、それが……当たり前のことと思っていたので」

 それは本心だった。ただ、今思い返すと、怒りと恐怖が入り混じったような複雑な思いが胸を締め付ける。今ならあの状況が悲惨なことも理解できる。

「では、何が悲しいのですか?」

「……私は『廃棄処分』にされた。それを思い出しました。研究所での生活が私の全てでした。それを失った今、これからどうすればいいのかを考えたとき、不安が、込み上げて、きて」

 涙が止まらなくなった。不思議なもので、あんな場所でも私の居場所だった。不要だと言われたこともショックだった。

 ハクアは私の気持ちが落ち着くまで黙って待っていてくれた。

「……すいません」

「いえいえ。さぁ、少しは落ち着きましたか?」

「はい」

「ほら、可愛い顔が台無しですよ。これで拭いてください」

 ハクアは白い布を貸してくれた。綺麗な布なので涙や鼻水で汚してしまうことに少し抵抗を感じたけれど、好意に甘えて使わせてもらった。


「そういえば、私はどうしてここにいるのでしょうか? 研究所からの記憶がありません」

「え、ああ。あなたは研究所からの移動途中で事故にあったところを僕が助けたんですよ」

 そうだったのか。研究所からどこかへ運ばれる予定だったのか分からないが、廃棄された者が送られる所なんてろくでもない場所だったに違いない。それが事故によって有耶無耶になったのだろうか? であれば事故とハクアに感謝しかない。

「助けて頂いてありがとうございます」

 私は深々と頭を下げた。顔を上げるとハクアはなぜか苦笑いをしていた。

「? そうだ、私の名前を……」

「おや、教えて頂けるのですね」

「はい。私の名前は、立花です」

 焚き火の中の生木がバチッと大きな音を立てて爆ぜる。

「タチアナ、ですか? それがあなたの名前だと。……ふむ」

 ハクアは私の名前を聞き間違えていた。

 今の私には立花よりもタチアナの方が合っているかもしれない。

 私はそう思って彼の聞き間違えを訂正しなかった。

 タチアナ。

 それが私の新しい名前だ。立花水琴として死んで、生まれ変わった私の新しい名前。

 順を追って整理したたことで私の記憶は段々とはっきりしてきた。理解が及ばないことはまだ多々あるけれど、それは追々考えていこう。

 私の思考が一段落着いた頃合いに、まるで心を読んでいるかのようなタイミングでハクアがパンと両手で柏手を打った。

「さて。タチアナ、あなたにはこれまで色々とあったようですが、失ったもの以上に得たものがあります。それは自由です。あなたがこれからの行く末に不安を感じているのは、あなたが自由な証拠ですよ。自由とは好きなことができるということです。さぁ、あなたは何がしたいですか? あなたに出会ったのも縁です。僕にできることであれば協力しますよ」

 何をしたいかと尋ねられて、私の頭にはたった1つのことだけが浮かんだ。掴みかかるようにハクアへ迫ると、何を考えているのか読み辛い彼の細い目をじっと見据えて答えた。

「ネコに会いたいです!」

 私の剣幕にハクアは若干引いていた。

「ネコ? ふむ……」

 彼は少し考えたようで一拍置いて尋ねてきた。


「ネコとは何でしょうか?」

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