第6話 拈華微笑(ねんげみしょう)③

 食事を終えると咨結はカリンの手を引き、紫陽花が咲く庭を案内していた。

 一方、乱は食事をした居間の向かいの部屋にいる誰かに話しかけた。

「紅梅、本当に会わなくていいのか?こんな機会なかなかないと思うが……」

 すると部屋の中から障子越しに若い女性の声が返ってくる。

「今はカリンという名前なんですね。あの子がまだ私を覚えててくれているからこそ、まだ縁が繋がっていられる。こうして遠くからあの子を一目見れただけで十分満足ですよ」

 声の主は一呼吸おいて会話を続ける。

「前世での私の正体を明かしたところで、あの子に辛い思いを思い出させてしまうかもしれない。自分の自己満足のためにあの子を傷つけるくらいなら、来世での再会を待ちましょう」

「あの別れ方では確かにそうかもしれない。だが、いつもすれ違いばかりだったんだろう?次がいつ、その会える来世になるか分からないんじゃないか?今でもいいんじゃないか?あいつのためにも……」

 乱は庭に居るカリンに視線を移す。

「あの子は繊細で人の気持ちを慈しむことに長けている。だからどれだけ時間がかかっても、必ず私を見つけてくれます。あの子はそういう子です。だから今私と会ってすぐに現世へ戻してしまうよりも、です。それを知らせるために咨結はあなたの元へ来たのですから。大丈夫、皆の輪廻は回り始めています。それに、ほら……お迎えの時間も近いようですから……」

 いつの間にやって来たのか、一匹の蝶が乱の目の前にふわりと現れた。そして障子をすっと通り抜け、女性のいる部屋へと入って行った。

「下手に会って辛い思いをするよりは、会わない辛さを選ぶ……か。待つ方と待たれる方、どちらがいいんだろうな」

 乱は静かに目を閉じた。


 ◇

 

 もともと空は灰色に覆われていたが、さらに空がだんだんと曇りはじめ、そしてしとしとと雨が降ってきた。

 カリンは黙々と何か書いている乱と、人懐こいけど何も話さない咨結と共に居間に静かに座って雨が降るのを見ていた。

 天外が不在の今、次の手掛かりである『明衣あかは』のところへいくことができず手持ち無沙汰でいると、天外が傘を持っていない事を思い出した。

 玄関先に置いてある傘を取ると、外門でいつ戻ってくるかわらかない天外の帰りを待つことにした。

 すると、咨結もカリンの真似をするように、ちょこんと隣にやってきた。カリンの視線に気づくとニコリと笑って見せる。

 傘から覗かせるくったくのない笑顔を、こんな自分に見せてもらえてとても嬉しく感じた。


 通りすがりの人たちに時折じろりと見られることもあったが、傘で顔を隠しなんとか視線を耐える。

「せっかくの着物が濡れるぞ。中で待っていたらどうだ?」

 しばらく立っていると、乱が手で作ったひさしを額にあてながらやって来た。それでも雨にあたった肩が雨粒で濡れている。

「でも、あの……天外さんが濡れて……」

「俺はもう濡れちまったが、俺には傘を差してくれないのか?」

 口端を上げた乱にそう言われ、カリンは慌てて傘に差し入れてやる。

「ここでは色々と不便かもしれないが、本当に現世に戻らなくていいのか?」

 乱は行き交う魂達ひとたちを見ながらカリンに尋ねる。

 カリンの方も覚悟は揺るがないとでもいう様に、正面を向いたまま静かに頷くと、乱はそれ以上あれこれ言うようなことはしなかった。

「天外はいつ帰ってくるかわからないぞ。それに玄関から戻ってくるとも限らない。家の中で待ってたらどうだ」

 そしてまた、額に手で作ったひさしを当てながら家に戻って行った。

 玄関から戻ってくるとは限らない、とはどういうことだろうか。

 カリンは咨結に視線を向けると、お互いの目が合い、思わず笑みがこぼれた。

 

 乱に言われた通り家に戻り玄関先で傘の雫を落としていると、家の奥からカリンを呼ぶ声がした。

 咨結は階段を指さして、乱が二階から呼んでいることを教えてくれた。階段を上りきると、確かに廊下の奥に乱がいた。

「ここはお前の部屋だ。好きなように使ってくれ」

 案内された部屋を見ると、鏡台、布団、箪笥、机、座椅子など一通りの家具が揃っていた。さらには円い形をした窓もついており、その窓からはさきほど散歩をした紫陽花の庭も見渡せた。

「それにしても……」

 乱は"それにしても現世に戻りたくないとは、どれだけの理由があればそう思えるんだ……"と言葉が出そうになったが、カリンの胸中を察すると言葉を飲んだ。勝手にそう決めつけるのは自分がする事ではない。

 乱はカリンの頬に触れようと手を伸ばす。だが、カリンは緊張からか体がびくりと動いたのだった。

 人に対する恐怖感———。

 乱はそれに気づき、伸ばした掛けた手を引っ込めると、カリンを見つめた。カリンの心を見透かすように、瞳のずっと奥を。


「今まで辛かったろう……」


 乱のその言葉を聞いた途端、カリンは心の奥へと鍵をかけて静かにしまっていたはずの扉が開き、感情が一気に押し寄せてきた。

 

”———自分は普通じゃない。普通じゃないから生きているのが辛い。普通じゃない自分なんていらない。だから自分なんていなくなってしまえばいい———”

 

 思い出したくない思い。

 忘れられたと思っていたのに、ただ忘れていた振りをしていただけの記憶。

 部屋の奥に荷物を押し込むように、隠して、見えないことで存在を消していた感情。

 それなのに、乱のその言葉がまるでカリンの心の引き出しの鍵だったかのように、しまっておいた不快なものが感情と一緒に溢れ出て来た。

 急に鼓動が早くなり、体中が熱くなり、視覚と感覚が切り離され頭がふわふわと浮いているような麻痺した感覚になる。その自分が、もぬけの殻となった自分を第三者として見ているような感覚。自分が自分じゃないような感覚。

 乱はまた言葉を続けた。

「辛くて苦しくて心細くて、さぞ不安だったろう……」

 

 ”お願い、放っておいて。構わないで” 


 思っていることとは反対に、心は正直で、素直に乱の優しい言葉に反応する。自然と涙が溢れてきて、視界がぼやけた。

 無理に何か話そうとするカリンの頭を、乱は優しく撫でた。

 乱の一挙手一投足は、カリンが自身に課した"こらえる"という義務の足枷を取り払い、そしてカリンの心を受け止めてくれるようだった。

 今までただ生きていただけの、中身が空っぽの人間に声を掛けてくれる人がいること、手を差し伸べてくれる人がいること、否定的な自分に目を向けてくれる人がいるという目の前の出来事に、自分の感情が反応して止まらない。

 やはり、何度も人生を繰り返しているひとはそれだけ感覚が鋭く、あらゆる経験を察する能力にも長けているものなのかもしれない。

 乱は、ただ静かに泣くカリンを優しく包んでやった。

 抱きしめたカリンは、まるで薄いガラスでできているかのように、とても脆く、少し力を入れただけですぐに粉々に割れてしまいそうなほど痩せた魂だった。

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