第2話 修羅界

 ―――手が震えている。なぜ、こんなに手が震えているのだろう―――


 緑に囲まれた境内にある何の変哲もない小さなお堂。その裏には樹齢何十年といった、立派な大木が数本立っていた。

 そのうちひときわ大きな一本の根本に女の子が寄り掛かって寝息を立てていた。女の子の隣には紺の袴姿の、ざんばら髪をした女の子より幼い男の子が、穏やかな表情で静かに座っていた。

 そこへ顔に布を巻いた、長身の着物姿の人物がお堂の方から姿を現した。着物姿からも体つきががっしりしているのがわかる。

 男が歩みを進める度に、砂利の音が二人に近づいていく。

「やっと来たか……見つけた」

 長身の男性は大木に寄りかかる女の子を、感慨深げに見ながら一人呟いた。

「お前もずっと待ってたな」

 男性はそういって、女の子の隣に座っていた男の子の頭を優しく撫でると、男の子は嬉しそうに口端を上げた。

 すると、その声に気付いたのか女の子は目を覚ました。

 ゆっくりと頭を上げて周りを見渡すも、目を凝らしているようだった。そして急に慌てだした。

 男性はその様子を見て安心したのか、軽く息を吐くと、自分の着物のから細長い布を取り出すと男の子に渡した。

「目が慣れないんだろう。いっそ目隠しをしてわざと見えなくしてやるといい。その方が落ち着くだろう」

 男の子は女の子の目元にそっと布を巻いて行く。布からは微かにお香の香りがした。

 女の子はすぐ目の前に誰かがいると分かるといくらか落ち着きを取り戻していた。

 長身男性は辺りを見まわすと、男の子もそれに続いて女の子の手を引いて立ち上がらせた。

 この時、女の子は手を取られた瞬間、とても不思議な感覚に陥った。

 一体この人達は誰なのか、どこへ連れて行かれるのかわからない不安があるはずなのに、だが女の子はこの男性達を知っているような不思議なものを感じ、このまま手を引かれるままについて行っても問題ないと感じた。

 顔もまだ見ていないし、言葉も交わしていないが、手を握った瞬間、何か懐かしい感覚が流れ込んできたのだった。


 境内を出ると、空が小さな点々に見えるほど空高くまで伸びた竹林を縫って行く。人気ひとけはない。聞こえるのは、竹が風になびいてきしむ音と笹の葉がこすれ合う音、そして三人の足音だけ。


 ようやく竹林の出口が見えてきた。

 あと数メートルで竹林を抜ける、といったところで、いきなり三人の前に腰が曲がった老人が現れた。だがその姿は人と言うよりは、真っ黒な影が動いているようだった。

 老人は黒い手を女の子に手を伸ばしてきた。掴まれるすんでのところで、長身男性は懐から取り出した扇子で老人の手を勢いよく払った。

咨結しゆう、昨日話した通り先に行ってろ」

 男性は男の子の方へ視線で合図した。男の子は力強く頷くと、女の子の手をしっかりと握ったままその場から駆け出した。


 ◇


 竹林を抜けて行った先には一昔前の下町の、時代を感じるような昔ながらの風景が広がっていた。

 男の子は、中でも風情ある建物が並ぶ一角に入って行くと、外門の前に鮮やかな朱色の小さな橋立がある一軒に入って行った。

 外門から中に入ると立派な日本庭園が広がっており、途中二本に分かれた細い方を抜けるとようやく玄関に辿り着いた。

 男の子が玄関を開けると戸に付いた鈴が鳴る。

 履物を脱ぐと勝手に家へとあがりこむと、女の子の手を引いたままずんずんと家の奥へ向かって行く。そして、とある部屋の前まで行くと勢いよく障子を開けた。

咨結しゆうちゃん、いらっしゃい。騒々しくするなんて珍しいわね」

 部屋の中にはしとやかそうな女性と細身の男性の二人が、洗濯物をたたんでいるところだった。二人の周りには、丁寧に畳まれた朱色と真っ白な洗濯物がいくつも出来上がっている。

咨結しゆう、いきなり部屋に入って行くとはひな菊に失礼だろう」

 男の子は女の子から少し離れたところに女性と細身の男性を手でこまねいて呼ぶと、何やら声をひそめて話はじめた。

「ええ……はい……はい」

 女性は咨結の話を聞きながら何度もうなずくが、男性の方は無反応だった。そして咨結の話が一通り終わったのか、女性は女の子の目隠しに手をかけると、そっと外してやった。

「そろろそ目は慣れたかしら……」

 女の子はゆっくり目を開ける。

 さきほど黒くぼんやりとしか見えなかった視界が、今ははっきりと見えるようになっていた。

 視界が広がると、女の子の目の前にはまったく知らない三人がこちらを向いているのが見えた。

「私たちが見える?」

 女の子は小さく頷く。

「良かった……。私はひな菊、こっちは」

 と、隣の細身の男性に手を向けて、

 「一緒に住んでるななお。そしてこっちの男の子は咨結ちゃん。あなたをここへ連れてきた子よ」

 と紹介した。


 女の子は紹介を受けて改めて三人を見てみた。

 ひな菊は鮮やかな和柄の着物に身を包み、とても知的で品のある女性に見えた。ななおという男性はひな菊という女性の隣で腕組みをしながら立ち、不機嫌そうに自分を見下ろしていて、何かとっつきにくい感じがした。

 咨結という男の子はななおとは対称に、ひな菊の隣に座りにっこりと可愛らしい笑顔でこちらを見ていて、人懐こそうな印象だった。

「あなた、カリンちゃんって言うのね。とても可愛い名前ね。あのね、こんなこと突然言われて混乱すると思うんだけど……あなた現世の人ね」

 

 カリンはひな菊の言った意味がわからなかった。

 現世とはこの世のことである。

 当然自分は死んで……まだ死んだ覚えはないし、生きているから当然現世の人間である。


「ここは死後の世界で、地獄の一つにも数えられることがある修羅界。あなたに見えているのは私たちの魂の形のはずよ」

 カリンはひな菊の言葉に目を丸くした。

「私たちのことはどのように見えているのかしら」

 ひな菊は手を口にあてて、ふふふと笑う。

「ここは見た目は現世と変わらないかもしれないけど、修羅界は来世と現世の狭間、輪廻を待つ場所よ。色んな想いを持ったひとたちが再び出会う因縁の場所でもあるのだけど」

 ひな菊はまたふふと笑った。この笑顔はとても親しみを感じさせ、混乱するカリンをいくらか落ち着かせてくれていた。


「でもいきなりそんなこと言われても理解できないわよね。あなたは死んでいるわけではないの、恐がらなくても大丈夫よ。私達は咨結ちゃんの友達だから安心してちょうだい」

 カリンはそれまで真剣に聞いているような表情をしていたが、実際は理解が追い付かず頭が混乱していた。混乱しながらもひな菊の話を頭の中で繰り返しては理解し、繰り返しては理解し、と少しづつゆっくり咀嚼を試していた。

 ななおは相変わらず腕を組んだまま、不機嫌そうにカリンを見ていた。そして何かに気付いたような表情になった。

「お前……」

 それまで良くも悪くもきょとんとしていたカリンは、ななおの言い方に威圧感を感じ、怯えるような表情を浮かべた。

「ななお、意地悪はやめてちょうだい」

「ち、違う!」

 ひな菊はカリンの手を取って続ける。

「咨結ちゃんと同じでお話ししないのかしら。カリンちゃんは物静かなのね。でも、困ったわね……乱はうちで身請けして欲しいって。それは構わないわよね、ななお?」

「冗談じゃない!現世の者を身請けだなんて!」

 ひな菊はななおの話を無視して話し続けた。

「ただ……現世の魂が修羅界に迷い込むことはとても珍しくて……身請けしたとして、どうやって現世へ戻してあげたらいいのかしら」

「前にも言っただろう、先も見ずに安易に引き受けるのは無責任と同じだと。放っておけば切紙様に見つかって嫌でも現世へ戻してくれる」

「そんな言い方しなくても……」

 ひな菊は頬を膨らませた困った顔でななおを見た。ななおはうっ、と鈍い声を上げた。

 ひな菊に懇願されるような眼差しに負け、ゆっくりと口を開いた。

「だが……聞いたことがある。ここは前世からの因縁が巡り合う場所。その修羅界と現世が交わるのには理由があるという……。この世界の魂がお前を呼んだのか、お前がこの世界の魂を求めてなのかはわからないが、ここにお前と重要な因縁のある魂がいるということ。だからその因縁の魂を探しだし、ここに来たその理由がわかれば現世へ戻れるはずだ」

 ななおは腕組みをしたままカリンにそう告げた。

「でも因縁のある人って、そんな簡単に見つかるものではないでしょう?どうやって探せばいいの?」

 ひな菊がななおに聞く。ななおは心配顔のひな菊の顔に右手を当てた。まるでそんなことは心配するな、とでもいうように。


 カリンはこの二人とまだ会ったばかりだったが、この二人の特別な関係を感じ取っていた。

 お互いがお互いを信頼し、そしてお互いを必要としている。どちらか一方だけが支えているのでなく、お互いを支え慈しんでいる、愛情とはまた別の関係。

 孤独だったカリンにとって羨ましくもあり、妬ましくもあった。

「とにかく、我々の縁者でもないのに現世の者など到底承服できない。修羅神との問題に巻き込まれるのも御免だ。連れ帰ってたつみの奴に身請けをしてもらうんだな。後は奴が何とかするだろう」

「そうね。ななおの言う通り、確かに私達より乱のほうがきっとあなたを守るのに相応しいはず。またいつでも遊びに来てちょうだい。咨結ちゃん、カリンちゃんお願いね」


(何か、って……何だろう……?)

 

 カリンは事態が良くわからないまま二人に見送られた。

 咨結は再びカリンを連れ、今度は乱の元へと向かった。


 ◇


 二人を見送ったあと、ひな菊はななおの首元に手を回しながら言った。

「自分と因縁がある人物を探す話なんて初めて聞いたわ。その話は誰から聞いたの?それとも……初めから知ってたの?」

 ななおはひな菊にそう聞かれると、何も言わずひな菊をまっすぐ見つめた。

「あなたより私の方が修羅界に長いのに、どうして私は聞いたことなかいのかしら……」

「風の噂だ。真偽はわからない……」

 ななおはそのままひな菊を抱きしめた。

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