ファントムペイン
駐車場に車を停め、リュックを背負って運転席から飛び出し、ドアを閉め、受付を目指して
『ヤバイヤバイヤバイヤバイ、大遅刻ぅ~~~。
先生ごめん!』
既に予約時間を三十分近く過ぎている。
自動ドアが開いた瞬間に駆け出し、ゼイゼイと息切れをしながら受付に向かい、そこに座る事務員に話しかけた。
「すみっ、ませんっ!
四時半にっ、予約してたっ、東野ですっ。
遅れちゃってっ、ハァ、ハァ、ハァハァ、
?」
「少々お待ち下さい」
キーボードを叩き、書類を確認し、
「南館三階の305号室へお願いします。
後ろのエスカレーターで上がって頂いて、右に曲がった部屋になります」
と案内され、弥姫は早口でありがとうございますっ!!と叫び、駆け出した。
エスカレーターに飛び乗り、駆け上がり、三階に降りると、そのまま右に曲がる。
305号室はすぐに見付かった。
弥姫はコココン!とドアを叩き、返事も聞かずに開ける。
「すいません!!
遅れっ、てっ、しまってっ」
「いやいや、大丈夫です。
時間はありますから、ちょっと休んで下さい。
今は激しい運動は避けて欲しいので」
「すみまっ、せん」
弥姫は息を整えながら近くの椅子を引き、リュックを背負ったままへたりこむ。
『しんどい。
ちょっと走っただけなのに、息がっ………』
「お水持って来ましょう」
「ありがとう、ございます」
弥姫の主治医・
急性白血病の第一療法は化学療法だと考えている彼女だが、弥姫に関しては例外だった。
弥姫が若く、体力がある事、最大の予後不良因子・フィラデルフィア染色体がある事、これらを勘案し、化学療法と移植療法の併用を提案した。
今日のインフォームドコンセントは染色体検査の結果の報告と移植に伴うメリット&デメリットの説明が主である。
『主治医としては移植を勧めたいけど、アレコレ言うのもねぇ。
医学がどれだけ進んでも、人は死ぬ。
死ぬまでに何を選び、何を捨てて、何を守るか、私たちが出来るのは選択肢を増やす事で、選ぶのは患者だもの。
最近はそこを履き違えてる奴も多いけど』
茉莉は紙コップに水を汲みながら溜め息をついた。
その後、茉莉の勧めもあり、弥姫は移植を決めた。
一週間後に市内の総合病院に入院し、化学療法を受けながらドナーを待つ事になる。
『どうしよう、一週間じゃ無理だよね』
サハスとラブジャの里親がまだ決まっていない。
成猫や老猫の里親は決まりにくい。
『朱染寺さんにお願いするか、最悪山に放すしかない。
保健所に連れて行ったら殺処分だ。
駄目元で、秋村さんにも訊いてみよう』
弥姫は常連客の一人・
夫と愛猫に先立たれ、子供とも疎遠になった老婦人。
サハスとラブジャを優しい眼差しで見つめ、いつも可愛がっていた。
玩具やオヤツをくれる事も多い。
それも、ちょっと高級な。
飲食代より二匹への献上品代が高い客はいるが、彼女はその中でも群を抜いている。
『ペットを飼える歳じゃないって言ってたけど、事情を話したら引き受けてくれるかも。
ドナーが見付かるまで保つか、保っても移植が成功するか、成功しても再発しないか、こんな体の飼い主より、健康で優しい人の方がいい。
サハスも、ラブジャも、家も、店も、お客さんも無くなっちゃう。
あんなに苦労したのに、死んだら何にも残らないんだ』
会計を待つ間、弥姫はポツポツと考えた。
これまでの事、これからの事、自分が出来る事、自分に出来ない事、そして、すべき事、分かっているようで、分かっていない。
『あの時殴っときゃ良かったなぁ。
こんな体じゃビンタも出来ない』
絶縁する前、弥姫は生まれて初めて勝逸と膝を突き合わせた。
白熱した議論も喧嘩もなく、話をしただけだが、弥姫にとっては今後の人生を左右する時間であり、かつてない時間でもあった。
それ程に彼女は父親に関心がなく、勝逸は家族に関心がなかった。
誕生日・学校行事・旅行・入学式・卒業式・成人式・就職・退職、弥姫の人生を作った場面の全てに父親の姿が薄い。
写真に写っていても、いないように見えるのだ。
『姉ちゃんも母さんも死んで、私も時間がない。
結局、長生きするのは好き勝手生きた奴か………。
死ねとまでは思わないけど、理不尽だよなぁ、世の中って』
人は痛くなくても痛みを感じる時と痛くても痛みを感じない時があると、誰かが言った。
痛みを感じなければ傷付いている事が分からない。
傷付いている事が分からなければ傷の場所も分からない。
傷の場所が分からなければ治療法も分からない。
そして、いつの間にか膿んでいく。
膿んだ傷はどうなるのだろう。
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