第32話 妙子とバレンタイン

 二月の十四日。バレンタインデー。僕はずっと気もそぞろだった。こんな気分になるバレンタインデーは生まれて初めてだった。それこそ分刻みでレッスンに明け暮れていた頃の僕にとってそんなイベントは余計な雑音以外の何物でもなかったのだから。


 この日は早い時間から冨久屋に行き妙子さんの反応を確かめてみたのだが、全くいつもと同じで不安になるほどだった。その僕の表情を読み取られたのか、妙子さんは僕を見てくすりとほほ笑む。しまった、あれだ。僕はからかわれていたんだ。そう思うとなんだかひどく恥ずかしくもあり少し悔しくもあった。

 妙子さんの前夫は未だ見つかっていなかった。すてばちになった彼が妙子さんをまた襲うとも限らず、僕は、そして誰よりも妙子さんは不安を抱えていた。僕が冨久屋に行けない日は長さんが付き添いをしてくれるので助かる。むしろ僕よりにらみのきく長さんの方が頼もしいのではないかとさえ思えた。そんな中今日も僕は妙子さんと月も星も見えない曇天の下真っ暗な道を帰る。白い息を吐きながら談笑し僕の家に辿り着いた。

 妙子さんはスープパスタを作ってくれた。二人で食べる。身体が温まる。これはきっと妙子さん自身の心の温かさだと思った。こういう温かみは藍にはないかもな、と思った瞬間、僕は二人を比べて優劣をつけようとしているのではないかと思い少しぎょっとする。僕は二人を比べて一体どうしようと言うのか。気持ちがひどくよどんでくる。


「奏輔さん?」


 妙子さんが僕をのぞき込む。僕は何気ない風を装い嘘を#吐__つ__#く。


「いや、今考えてる曲がなかなかうまくいかなくて……」


「あら、大変なんですね。頑張って下さいね。応援してますから」


 ベージュのハイネックセーターを着た妙子さんが僕を励ましてくれる。それだけでもう僕には身に過ぎた幸せだ。


「ありがとうございます。今度もコンテストに出してみますので入賞したらお祝いして下さいね」


「もちろんです!」


 食後の洗い物も妙子さんが全部やってくれる。どうしても僕には手伝わせてくれない。これもまた妙子さんなりの罪滅ぼしの一環なのだろう。妙子さんの過剰な罪悪感が僕には重すぎた。

 食後に二人でお茶菓子を持ちよりお茶を飲むのも習慣になっていた。妙子さんはべこ餅と雛あられが好きだった。何気ない会話が心地いい。冨久屋でのこと、僕の作曲のこと、お互いの実家でのこと、季節の話題、街の噂話などなど。しかし僕はそろそろ焦ってきていた。今になってバレンタインチョコの「バ」の字も出てきてないのはどういうことなのか。もしかすると妙子さんは本当に忘れているんじゃないだろうか。そんな疑いすら芽生えてくる。


「この間七重浜のお肉屋さんでね――」


「はい」


 気もそぞろな僕は完全に上の空だった。


「チョコはいらないんですか?」


「――はい」


 僕は上の空で答えた。


「あっ!」


 我に返った僕は慌てた。


「あっあの違いますっ、そうじゃなくてっ」


「ふふふっ」


 妙子さんが面白いものでも見るような目で笑った。


「少し意地悪し過ぎちゃいましたね。はい、これ」


 妙子さんが取り出したのは可愛らしいリボンで飾られた長方形の小さな箱だった。


「あっ……」


「あら本当に要らないんですか、チョコ」


 面白そうな顔をする妙子さんに僕は慌てた。


「えっ、いやっ、いただきますっ、ありがたくいただきますっ」


「はい、ではどうぞ」


 僕はおずおずと箱を受け取る。


「あ、あの、開けてもいいですか」


「もちろん」


 箱を開けてみると中には粒の大きな三つのトリュフチョコレートが入っていた。


「これ、もしかして」


「ええ、自分で作ってみました。ちょっといびつになっちゃったけど」


 と妙子さんは恥ずかしそうに微笑む。


「あ、そうそうコーヒーれましょうか。こんな時間ですけど」


 妙子さんがれてくれたコーヒーで妙子さん手作りのトリュフチョコをいただいた。僕は妙子さんにも勧めて食べてもらった。

 二人で和やかにチョコを食べながら話していると、これが以前妙子さんの言っていた「恋」なのかもしれないな、と思い心が温かくなったような気がした。


 僕は今妙子さんに恋をしているのだろうか。もしかするとそうなのかも知れない。砂糖よりも甘くほろ苦いトリュフチョコの最後のひとかけらを飲み込みながら僕はそう思った。


◆次回

第33話 藍とバレンタイン

2022年8月8日 21:00 公開予定

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