第31話 新曲
「ほらこれ」
冨久屋によく似た古臭い和風居酒屋のカウンターで僕は藍に紙を渡す。オレンジ色の照明に照らされ、混み合ってざわめく店内に朗々と昭和の演歌が響き渡っていた。
「ん? なにこれ?」
「楽譜だよ。コンクールの」
「えーっ、もうできたんだ。さっすが仕事早いねえ」
僕たちは藍の応募した雪華コンクール二次本選で演奏する自由曲に僕が作曲した曲を使おうと考えていた。全く無名の作曲家の曲を演奏することで意表をついて注目を集めてみたかったのだ。これが僕の言う「変わった事」だ。
この間コンテストで一位につけたことで僕は手応えを感じていた。そのことを考えると、僕は妙子さんに感謝してもし切れないのは事実だ。だが妙子さんの過剰なまでの罪の意識が僕には重かった。
「どれどれ早速……」
そんな事をぼんやりと考えている僕を無視して、藍は僕の楽譜を開いて目を通す。しばし沈黙が流れる。次第に藍の目が真剣になっていく。ぶつぶつと小さく口を動かす。
「ああ、いいよ! いいよこれ!」
大きな熱のこもったため息をついて、藍は目を閉じ僕の楽譜を抱き締めながら言った。
「いいか」
「最高」
「よかった。藍が好きそうなメロディーで、藍が弾きやすそうな難度にしてみたんだ」
「ほんとそうだね、これ最高だよ」
顔を上気させて興奮し何度も最高を口にする藍に僕は少し照れた。
「いやなに、そんな大したことじゃないさ。でも気に入ってくれたんならよかった」
「うん、最高に気に入った。こんな曲を作ってもらえるなんてめちゃくちゃ嬉しいよ。あたしにはこんなことできない」
それを聞いて僕ははっとした。
「できない、か?」
「うん、絶対無理。奏輔やっぱ作曲の才能あったんだよ。すごい。羨ましいよ」
僕は藍には持っていない才能を持っているということか。そう聞くと今まで藍に対して持っていた羨望や嫉妬が少し薄らいでいくような気がしてきた。そうか。僕には僕にしかないものがあるのか。
また嬉しそうに顔を輝かせて楽譜に見入る藍。照れながらも僕は少し得意な気持ちになった。
「そうだこれ弾いてみたい」
「いや、この時間じゃ無理だろ。駅ピアノも終わっちゃってる時間だし、音楽教室だって閉まってる。明日にならないと」
「うち行こう!」
「藍のうち?」
「あたしのアパートならあるんだ、ピアノ」
「なんだって?」
あの六畳一間の狭い部屋にピアノを置いたっていうのか? それに金はどうしたんだ? 僕の頭の中に沢山の疑問符がわいてくる。
僕たちは居酒屋での飲み会は早々に藍の部屋に向かった。藍の言っていたピアノとはなんてことはない、細長い紙に細字のマジックで鍵盤を書いただけのものだった。
「なんだ紙鍵盤か」
「うん、あたしのピアノ。これじゃストロークとかは全然練習になんないけど指の運びくらいになら代用できるかなって」
「まあ今はこれでやるしかないよな。やってみるか?」
「もちろん!」
紙鍵盤で弾かせてみて驚いたのは、藍はあの居酒屋でさらっと眺めただけであらかた楽譜を憶えてしまっていたことだ。以前にも藍の暗譜能力に驚いたことはあったが、ここでもまたそれに驚かされた。
メロディーを口ずさむ藍は軽やかに紙鍵盤の上で長い指を躍らせる。その目のきらきらとした輝きに僕はしばし魅入られた。本当にきれいな眼だ。
「こんな感じでいいかな」
僕ははっと我に返った。
「あ、ああいいんじゃないかな。ほとんどできてる。驚いたな、思った以上に腕を上げた」
得意気な顔をする藍。
「ふふーん」
このあと僕たちは紙鍵盤でメロディーを口ずさみながら色々な曲を弾いて遊んだ。僕も右手が動くつもりになって紙鍵盤を弾く。また、二人ではしゃぎ合いながら連弾もした。
「なんかついこの間みたいだね。奏輔が怪我する前」
「ああ、そうかもな」
僕たちはふざけ合いながら紙鍵盤を弾く。それは朝まで続いた。
◆次回
第32話 妙子とバレンタイン
2022年8月7日 21:00 公開予定
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