第33話 藍とバレンタイン
すがちゃんから手作りのチョコをもらったバレンタインデー。僕は大喜びだった。ところが藍からはチョコどころか連絡一つもない。きっとバイトが忙しいんだろうとか、藍はもともとバレンタインにチョコをくれるような柄じゃないだろうとか、くれたとしてもどうせ二百円の友チョコだろうとか考えて納得しようとした。が、それでも気になって気になって仕方がない。もしかするとすがちゃんからチョコがもらえなかった場合よりも気をもんでいたかもしれない。
そんなバレンタインデーも二日を過ぎたある日の午後、藍からメッセージが来た。
「バレンタインイベント来てね(ハート)」
このメッセージをもらった僕は大いに困惑した。イベントってことはニュークラの「サンシーロ」に来いってことだな。バレンタインって女の子からのプレゼントがある日で、男の子が一方的に金銭の支払いをする日じゃないと思うんだ。しかももう二月十四日を過ぎていた。僕は返信する。
≪今更?≫
≪忙しかったんだよ≫
≪サンシーロなら行かない。と言うか行けない。金銭的に≫
≪じゃ普通の飲みでもいいからさ≫
メッセージをやり取りするうちに藍の騒がしい笑い声や軽妙なお喋りが少し懐かしくなってきた。その懐かしさに負けて僕は返信する。
「OK」
飲み屋街の洋風居酒屋を藍は指定してきた。僕は行ったことがない店だ。指定日当日店内で待ち合わせる。相変わらず藍は遅刻し、悪びれもせずに僕の向かいの席に着いた。
「遅刻魔め」
雪のついたニットキャップとコートとマフラーを無造作に脱ぐ藍。よれたデニムについた雪をニットキャップで払いながら悪びれもせず笑顔で僕の嫌味を受け流す。
「だあっていそがしいんだもおん」
「どこがだ」
「へへっ、まあ今日のところは許してよ。割り勘にするからさ」
「それじゃ普通じゃないか」
「あ、すいませーん、生ビール、あ、あんたもいる? じゃ二つで!」
この後はしばらくは藍の愚痴、しかもサンシーロでの愚痴ばかりを聞かされる。もともともの静かな僕には不似合いな陽気で騒々しい店内。そこで陽気な藍の愚痴の独演会がひとしきり続いたあと、ようやくピアノの話が出てきた。が、それはあまり気持ちのよい話題ではなかった。
「最近たまにしか駅ピアノ来てくれないね」
それまでの表情とは打って変わって藍は寂しそうな顔をする。正直な話、作曲の道が開けつつある今でも、やはり人が弾いている姿を見るのは少しつらい。大してうまくもない冷凍そら豆を口にしながら僕は藍の言葉にぽつりと答えた。
「ああ、作曲が忙しいのもあるし、それにやっぱり人がピアノを弾いてる姿は見てられなくてさ」
「そっか……」
藍も枝豆に手を伸ばす。一瞬僕と指が触れる。
「左手だけの曲とかないの?」
「うん、まあ、スクリャービンの二つの左手のための小品とかアーサー・フットの左手のための三つのピアノ小品とか、右手を使わない曲もないわけじゃない」
藍の顔がパッと輝いた。
「あるんだ」
「少ないけどね。実際僕だって聴いたことないし弾いたこともない。でも確かにまあそういった曲なら駅ピアノで弾けなくもないか」
「うんうん」
藍の笑顔がほころぶ。
「あとこの間みたいに月光の第三楽章を連弾するとかさ」
「あれはもうやだ。結構難しいだろ。親指同士がぶつかるし」
「あー、結構あるよねえ」
「それに藍は自分のペースでどんどん弾いてった」
「最後は合わせたじゃん」
「もっと合わせてくれないと困る。マイペース過ぎるんだよ、藍は」
「注文が多いなあ」
「それに別に月光にこだわらなくても二手連弾って言うのもある。グリーグのピアノ連弾のためのノルウェー舞曲とか。ほかにも三手連弾でセコンドは左手だけの曲もある」
「なんだ色々あるじゃん。ねえやってみようよ」
「さっきも言ったけど正直あまり気が乗らない。だいたい藍はなんでそんなに僕の演奏にこだわるんだ。僕のなんて藍に比べたら本当に大したことないぞ。分かるだろ」
僕は藍のピアノを聴く時の胸苦しさを感じた。過去、そしてもちろん今も、僕には決してたどり着けないあの演奏。その藍の演奏を思い出し僕は惨めな気持ちになる。
「そんなことない。そんなことないよ。奏輔の演奏はすごいよ。私分かる」
藍は身を乗り出した。
「買いかぶりすぎだ……」
目を逸らして呟く。むきになって主張する藍の言葉が僕には嘘くさかった。
「最初に月光の第三楽章聴いた時から感情が乗っていたっていうのかな。本当に好きだったなあ……」
僕は自分が自由に弾けていた頃を思い出して憂うつになった。このように藍が僕にピアノの話を振って来ると、僕の心の中に負の感情が次々と溢れ出てきて、僕はそれを持て余す。僕は一連の話をさっさと切り上げたかった。
「いずれにしても今の僕では限界がある。前と同じというわけにはいかないさ」
「うん……」
藍はビールジョッキ片手に目を伏せ、しばし沈黙が流れる。しばらくして視線を上げる。
「あの、あのさ、聞いていい? 手の怪我のことなんだけど、ジュラフスキーに言ってたよね。『夫に刺されそうになった妻を庇って怪我した』って」
「うん……」
「それってどういうこと?」
「あの時言った通りだ。男が元の妻を襲っている現場に偶然居合わせたんだ。あとは無我夢中で割って入って、気がついたらそいつが持ってた包丁で手を切られてた」
その「元の妻」が誰なのか、今僕とどういう関係なのかは言い出せなかった。本来なら当然言うべきだった。
「腹立つ」
藍は怒りも露わに吐き捨てた。
「もう済んだことだ」
「奏輔平気なの?」
平気なわけがないだろう。だが相手が妙子さんの前夫であれ他の誰であれ、あるいはただの不慮の事故であれ、この手の傷はもう治らないということに変わりはない。僕は右手の傷に目をやる。白くて細い痕。こんな小さな傷が僕のピアニスト人生を潰した。右手を強く握るとピリピリとかすかに裂けるような痛みと疼きを覚える。
「どう思おうとこの傷はもう治らないのは変わらない。だったら違う生き方をするだけだ」
「奏輔……」
「罰が当たったんだ。『僕は音楽を捨てた』なんて言うもんだから、音楽の方から僕を捨てたんだ。仕方ないさ」
「そんなことないよっ」
「そうでも思わないとやりきれないんだ。すまん、この話はもうこれでおしまいにしてくれ」
「あ、う、うん……」
その後は二人して少ししんみりと話をしながら酒を飲んだ。小一時間もして酒が回ったころ、僕はもうお開きにしようとした。
「さてもう帰ろうか」
「あっねえねえ、うち寄ってって欲しいんだけど」
さすがに気乗りがしない。だがどうしても、と藍が懇願するものだからつい根負けしてしまい藍の部屋へ向かった。
藍の部屋にたどり着くと珍しく紅茶を淹れてくれる藍。そして冷蔵庫から何やら小さなものを出してきた。
「なんだこれは」
「ふふーん、カップケーキでーす」
「ケーキ! まさか手作り!」
「そうそう。どうよ。見直した?」
「見直した見直した。やるなあ。意外と料理上手?」
「お菓子限定でね。バレンタイン過ぎちゃったから、もう売ってるチョコも普通のになっちゃってるし、手作りチョコにしてもいいけど、それじゃあいっそチョコにこだわらないで、って思ってさ。ささ、食べて食べて。これがチョコで、これがバナナ」
「じゃあ遠慮なく…… おおうまい。ちゃんとうまいぞ。これだけうまけりゃお店開けるんじゃないか?」
「そか、よかったよ。あたしこれくらいしか取りえなかったからさ。よく一人で焼いてた」
「へえ、ますます意外だ」
「あたし、中高の頃って学校でもヤバい奴だって思われてて孤立してたんだよね。だから学校のことでムカついた時は一人でケーキ焼いてさ、おじさまと二人で食べたんだ」
つらい話のはずなのに笑顔を見せ何食わぬ顔でしゃべる藍。
「そうだったのか……」
なんだか藍の暗い過去を聞いてしまい、なんと言っていいか分からない。こいつはこいつなりにつらい思いをしていたのか。
「ん、そだったの。だからよかった、あたし。ここであんたに会えてさ。ほんとよかった」
顔をほころばせる藍が僕にはまぶしかった。僕は少し目をそらし小さく呟く。
「……うん」
「これはその感謝の気持ち。まあちょっとちっちゃすぎるけどね、気持ちはいっぱい詰まってると思って食べて」
「ああ……」
僕は藍の気持ちを食べる。甘くて、僕には少し苦い味がしたような気がする。僕はこの藍の気持ちに応えられているだろうか。
二人で小さなケーキを食べ終わると、藍はなぜかほっとしたような表情を見せた。
「さて、これでやらなくちゃいけないことは済ませたぞ、っと。ふふっ三月十四日楽しみにしてるからね」
「僕もケーキ焼いてみようかな」
「無理しないでいいからね。出来ないことはしなくていいって」
「なにを」
「あははは」
この後僕は適当な理由をつけて早めに藍の部屋を出た。前のように藍にべたべたされるのは、なにかよくないことのように思えたからだ。
藍の部屋を出た後はやはり冨久屋へ向かう。僕を迎えてくれる妙子さんの笑顔が嬉しい。さっきまでの少し苦い感情が融けていく。すぐに閉店時間になってしまったが、長さんが帰った後二人で戸締まりをする。そのあとたった一時間程度だが僕たちは二人だけでカウンターに座って話した。冨久屋のこととか妙子さんのお母さんのこととか。何気ない話なのに心が温かくなる。僕たちは妙子さんが作ったスープ餃子を食べると店を閉めて妙子さんのアパートへ向かった。僕は妙子さんの姿が部屋に入るのを確かめてから帰る。藍のカップケーキと妙子さんのスープ餃子が、僕の中で混然一体となって消化されていった。
◆次回
第34話 狙われた藍
2022年8月9日 21:00 公開予定
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