第13話 想の恋

 ジュラフスキーのリサイタル翌日。僕と藍はまだ興奮の余韻に支配されていた。


 示し合わせたようにいつもより少し早く駅ピアノについた僕と藍は、ジュラフスキーがリサイタルで弾いた曲に挑戦した。僕はラフマニノフの幻想的小品集より第1番、悲歌エレジーを、藍はショパンの夜想曲ノクターン第17番 ロ長調 Op.62-1を弾いた。相変わらず僕は己の圧倒的な力不足を噛みしめうなだれた。僕では何から何までが足りなさすぎる。だが僕のような中途半端な人間にはそれを挽回する術がない。僕はやはり音大に戻った方がいいのだろうか。一方で藍はミスだらけの自分の演奏にもひょうひょうとしてあまり気にしていない様子だった。この大物感も僕の劣等感をさらに刺激する。


 その後はいつものように活力亭ラーメンでワンコイン塩ラーメンと餃子を食べながらよもやま話をする。最近は藍の口調がさらに砕けてきた感じだ。それだけではない。僕にしがみ付いてきたり身体をくっつけてきたりすることがまた増えてきている。僕はそのたびに動悸がして藍を引き剥がすのに苦労する。その時の藍のいたずらっぽい目がまた僕を誘惑するようでさらに僕をどきどきさせていた。

 活力亭ラーメンで腹を膨らませた僕らはここで解散。ここにやってきて藍と初めて会って以来二ヶ月弱、僕と藍と駅ピアノの間にはこのような関係が続いている。それはそれで平和で幸せな生活だったと言えた。


 午後のバイトを終わらせ、僕は夜の冨久屋にいる。

 夜も更け店内には僕しか客が残っていない。するとまた長さんが狙いすましたように早退し、今日も気が付くと僕とすがちゃんしかいない冨久屋になった。定時になると僕たちは目配せをして笑いながら二人で雨戸を閉め、店内の明かりをほとんど消した。二人で洗い物をするのも楽しく、後片付けもきっちりと済ませた。

 アルファベットと英数字をかたどったビスケットを肴にビールを出してくれるすがちゃん。すがちゃんはほうじ茶を飲んでいる。


 カウンターにうつ伏せになってすがちゃんの方に視線を向ける。その視線の意味に気付いたのかすがちゃんもまたこの間のようにカウンターに突っ伏してこっちを見つめる。その姿勢のままはっと何かを思いついたような顔をして僕に尋ねてくる。


「ねえ、想さんっておいくつ?」


 僕は屈辱的な経験を思い出した。


「何言ってるんですか、免許証見せましたよね」


 僕がここに飲みに来た最初の日、すがちゃんは僕を未成年者と疑い、険しい目で証明書の提示を求めてきたのだ。


「ああ、ごめんなさい。確か21歳」


「そうです。ちゃんと覚えてるじゃないですか」


「そうそう。はじめ見た時は未成年かとおもっちゃった。だって見た目がその、可愛いから」


 くすくす笑うすがちゃんが僕には気に入らなかった。僕は逆にすがちゃんの年齢を知りたくなった。僕より大人っぽくて4、5歳くらい年上なのは間違いないと思う。しかしこちらから年齢を聞くのは礼儀に反している。


「私は26」


 意外なことにすがちゃんの方から自分の歳を言ってきた。とても五歳も上には見えない。


「ああ」


「んん? その『ああ』はどういう意味の『ああ』?」


 僕の不用意な一言にすがちゃんは笑いながらも責めるような口調になる。僕は慌てて弁明する。


「あっ、えーと、想像してた通りだということです。大人っぽくてしっかりしていて、なのに可愛らしくて、その……」


 素敵です。と言おうとしてなぜか僕は口ごもってしまった。


「ふふっ、ありがと。お上手ね」


「いや、その、お世辞じゃないです」


「ふふっ」


 小さく笑うとすがちゃんは僕の肘を自分の肘で軽く突いた。僕の心臓が大きくどきりと鳴った。

すがちゃんは突然話題を転換した。興味深そうな顔で僕に問いかける。


「ね、想さん…… 想さんは恋したことある? 誰かとお付き合いしたことは?」


 吸い込まれるような目つきのすがちゃん。僕はそれにすっかり魅了されながらも、さっきから少し馬鹿にされているような気もした。僕を恋愛未経験者と思い込んでいるに違いない。少しむっとして返答する。


「ありますそれくらい。高二の頃と大学一年の頃」


「へえ、そうなんだ。でも想像ついちゃうなあ。可愛いお付き合いしてたんでしょ」


「かっ可愛いって……」


 僕は反論を試みた。


「高校の時は、メッセージのやり取りをするうちに彼女から告白されて、それから毎日一緒に練習するようになって、音大志望じゃない彼女と音楽への打ち込み方の違いから亀裂が生まれてケンカして終わりました。それと……」


 僕は言葉を続けた。


「大学の時はバレンタインの時にチョコと一緒に告白されてそれから一緒に練習するようになったけど、音楽に対する考え方の違いからケンカしてそれっきりです」


 すがちゃんは顔を伏せてくすくすと笑っていた。


「なんですか?」


 あからさまに笑われて僕は不機嫌になった。しかも笑われる理由がわからない。


「だって、だって…… ふっ、ふふふっ」


 しばらくして笑いが収まると涙を拭きながら顔を起こす。そこまで笑われたなんてなんだかやっぱり不本意だ。まだ半笑いのすがちゃんはこっちを見ながら言った。


「やっぱり恋したことがないのね」


「なっ……!」


 言っている意味が分からない。僕が今言ったことを聞いていたんだろうか。


「彼女さんたちとデート行ったことある? 東京にはいっぱいあるんでしょう、遊園地」


「行ったことなんてないです。遊んで丸々一日潰す暇なんてありません」


「じゃあ、彼女さんたちの曲を聴いて、なんていうかこう、『胸が熱くなる』ような体験はなかったの? その演奏に彼女自身の何かを感じる時はなかった?」


 この時のすがちゃんの表情は少し真剣だった気がする。音楽に詳しくないすがちゃんがこのような表現をしてくるのが意外だった。まるで実体験であるかのように。


「胸が熱くなる……? 彼女を感じる?」


 胸が熱くなる。それこそまさに今のこの状況だ。僕はあの頃彼女たちにそんな心情を抱いたろうか。

 抱いていなかった。まったく抱いてはいなかった。

 彼女たちは言わば僕の「同志」であり「戦友」だった。そして僕は彼女たちの譜面と指と鍵盤しか見ていなかった。彼女たちの顔も心も見ていなかった。彼女たちを感じることもなく、彼女たちの言葉ではなく演奏しか聴いていなかった。その事実に気付いた僕の言葉は重かった。


「……そんな思いを抱いて勉強が遅れたら一大事です。言われてみれば確かに僕は、彼女たちの発する音楽の表面しか聴いていなかったのかも知れません」


「そっか……」


 すがちゃんは少し憂うつそうなため息をついた。


「これは……難しいなあ」


 前髪をかき上げつぶやいたすがちゃんは、少し疲れた表情で苦笑して腕に顔をうずめた。すがちゃんの雰囲気も変わる。さっきまでの熱気が消え身体中の力も抜けたような気がした。


「難しい?」


「あ、いえなんでもない。なんでもないの。こっちの話」


 言っている意味が分からず尋ねた僕にすがちゃんはまた慌てた様子でごまかす。短い沈黙ののちすがちゃんがにっこり笑って僕に言う。


「これからはいい恋をしてね」


「あ、はい」


 僕は前回と同様ささやかな接触をしたいと願った。自分の肘をすがちゃんの肘にそっと近づけていく。すがちゃんはそれに気づいているのかいないのかよくわからない表情で僕を見つめている。そしてついに二人の肘同士が触れた。僕の心臓が高鳴り身体が熱くなった。すがちゃんが甘く優しい声で僕に訊いてきた。


「どうしたの?」


 僕は言葉にして答えられなかった。顔が赤くなる。

 するとすがちゃんが僕の肘を優しく押し返してきた。どきっとしてすがちゃんの顔を見たらすがちゃんはクスリと笑った。


 僕はすがちゃんの肘と肘を触れ合わせたまま僕のバイトの話や中学高校時代の話、今まで放浪した街の話をした。でもすがちゃんの肘の感触が気になって全く会話に集中できない。

 すがちゃんはそんな僕をじいっと見つめながら僕のつまらない話を時には楽しそうに時には一生懸命に聞いてくれた。


 僕にとっては至福の時だったと言える。だが、僕が飲み過ぎたのではと心配するすがちゃんによってお開きを余儀なくされた。そんなに飲んでいないと僕が抗議してもすがちゃんは聞き入れてくれず、二人だけのささやかな宴会はお開きとなった。

 僕は少々不満だったがどうもそれが顔に出ていたらしい。すがちゃんにからかわれる。


「あら、なにかご不満でも?」


「えっ、あ、いや、そっそんなことはありません……」


「でもほら、すごい不満顔」


「そんなことないですないですっ」


 慌てる僕を見てくすりとほほ笑むすがちゃんが眩しくて僕は真っ直ぐ見ることができなかった。酒のせいでもなく自分の顔が赤くなるのを感じる。


 二人で冨久屋を出ると湿って冷たい強風が吹いていた。


「荒れそうね……」


 なびく髪を指でいて空を見上げるすがちゃん。


「ええ……」


 僕も空を見上げる。低い雲がすごい速さで流れている。これから何かが起きそうな、訳もなく不安な予感が僕の胸をよぎった。


◆次回

2022年7月16日 21:00

第14話 タッパーと包丁

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