第14話 タッパーと包丁

 今日も冨久屋で飲んで帰宅する。温かみのある店と寒々とした僕の部屋のギャップが悲しい。アパートの扉を閉じると、古臭くて小さなテーブルの上に小さな箱を置きっぱなしだったのに気づいた。この間すがちゃんからもらったロールキャベツが入っていた少し大き目なタッパーだ。ジュラフスキーのリサイタルやらなんやらがあってすっかり渡しそびれていていた。今日手渡ししようと思っていたのにそれさえもすっかり忘れていたのだ。

 明日にしようかと思ったが、しばらく考えた後冨久屋にUターンすることに決めた。あそこの温もり、そしてすがちゃん自身の温かさが恋しくなった。僕は急いで冨久屋を目指した。店はまだぎりぎり開いているはずだ。


 ところが残念なことに冨久屋は閉店していた。しかしまだ店内の温かさは残されているように見える。まだ閉店したばかりに違いない。あるいはまだ誰かいるかも、と思い狭い路地を通って裏手に向かう。


 店の裏から声が聞こえた。男性の声だ。そしてそれは長さんのではなかった。


「このあま手こずらせやがってっ」


 明らかに真っ当な人間の言葉づかいではない。僕の心臓は突然早鐘を打ち始めた。


「やめてっ、やめて下さいっ」


 すがちゃんの震える声がする。まさかすがちゃんが襲われているのか。僕の血液は一気に氷点下の冷たさになり、物陰で脚がガクガクと震える。


「どうせこんなところでばかな男に色目使って面白がってたんだろ。そういう女なんだよなあお前ってやつはよお」


 男のあまりにいやらしい言葉に僕は激しい怒りを覚えた。その怒りは恐怖を打ち消すのに充分なものだった。すがちゃんの笑顔を思い出す。それは決して男に色目を使い惑わすような笑顔ではなかった。それは、その笑顔は、人の心の醜さとは無縁の野に咲く花のような笑顔だ。改めて僕の中でふつふつと怒りがこみあげてくる。


「違いますっ」


 けっ、と吐き捨てると男は続けた。


「嘘つけっ。やっぱりお前みたいな女は俺がびしっとしつけてやんなくっちゃ駄目なんだっ、このくずがっ」


 僕はすがちゃんを冒涜ぼうとくする男の言葉に一瞬にして激高した。頭に血が上る。向こうにどんな危険があるのか考えもせず、タッパーを投げ捨て、とっさに裏手に飛び出してしまった。そしてすがちゃんを冒涜ぼうとくした男に向かって叫ぶ。


「その人はくずじゃないっ!」


「想さんっ!」


 驚いた顔のすがちゃんと男の状況を見て僕はぞっとした。男は片手ですがちゃんの手首をつかみ、もう片手に包丁を握っていた。すがちゃんのコートの片袖が切り裂かれそこからオフホワイトのセーターが顔をのぞかせている。

 男は包丁を僕の方に向けにやにやっといやらしく笑う。


「ほおらこれだよ、もう若い男掴まえて手懐てなずけちまったのかあ? おっかない女だぜ、お前ってやつはよお」


「違いますっ! この人はそんな人じゃありませんっ!」


 すがちゃんがさっきとまでの弱々しい様子とは打って変わって大きな声で叫び、ひどく真剣な、怒ったような表情になる。その声に男は一瞬たじろいだ様子を見せたが、たちまち表情も一転し、激しく攻撃的な声になる。


「違うわけねえだろっ! だからお前はくずなんだっこのくそが!」


 男は包丁をすがちゃんに振り下ろそうとする。すがちゃんの顔を切りつけようとする包丁。とっさに僕はその包丁を持った腕に飛びつき男ともみ合いになる。そのおかげですがちゃんは男の手からは解放された。


「やめてっ、やめて下さいっ、言う通りにしますからっ。だからその人を離して!」


 男の腕にすがり付き大声で叫ぶすがちゃんだが、僕としては到底認められない提案だった。


「だめだっ!こんな性根の腐った奴の言うことなんか聞いちゃだめだっ」


 だが男の腕力は相当なもので、彼の腕にしがみついていた僕もすがちゃんもすぐに引き剥がされた。


「なんだとこのがきぃ!」


 包丁を顔面に振り下ろされる瞬間、恐怖に駆られた僕はとっさに右手でそれを払おうとした。

 手の甲に鋭い痛みが走る。はっとしてそれに気を取られた。手の甲に切り傷ができていてそこから血が溢れている。

 僕が呆然とする次の瞬間、胸に圧力を感じた。僕は男に思い切り蹴り飛ばされ、後方のプロパンガスボンベに後頭部をしたたかに打ち付けて意識が遠くなって行く。それと同時に何人かの声が聞こえてきた。


「おいそこ何やってんだ!」

「警察呼ぶぞ!」

「おまわりさーん! ここでーす!」

「想さん! 想さんしっかりして下さい想さんっ!」

「早く救急車呼べ救急車!」


 なぜかほとんど何も見えない中、音や声だけはうすぼんやりと聞こえる。その中にすがちゃんの声が聞こえた時僕は心底ほっとした。そうか、あの男に連れていかれなくて済んだんだな、これでまた冨久屋ですがちゃんと話したり笑ったりできるんだな。そう思ったら安心してふっと意識が途切れた。その後のことは何も覚えていない。





 僕の意識が回復したのは翌日の午後だったそうだ。目が覚めると枕元のパイプ椅子にはすがちゃんが座っていた。


「あれ? すがちゃん?」


「はい」


 いつもとは違った、心労の色濃い笑みを見せるすがちゃん。一方僕の頭は混乱していた。


「あれ、おかしいなまだこんな明るいのに、あれ、それとももう営業時間なの? 今何時だ? あ、いや、ここ、冨久屋じゃなくて…… え? どこ?」


「協会病院です」


「病院……」


 言っている意味が分からなかった。病院? 僕が病院に?


「そうだお腹減りませんか?」


 僕にでも分かる作り笑顔のすがちゃん。心労だけでなく、緊張した面持ちを隠そうとしている。しかし僕は腹ぺこだった。ありがたくいただくことにして上半身を起こす。


「リンゴ剥いてきたんです。いかがですか」


「は、はい……」


 それでも僕の頭はまだぼうっとしている。


 僕が返しに行ったタッパーとは別のタッパーに皮を剥いて小さく切ったリンゴがいっぱい詰まっている。食べきれるかな。


 すがちゃんは小さなフォークに小さなリンゴを刺し、少し澄ました顔で僕に差し出す。


「はい、あーん」


「!」


 僕は一気に顔が赤くなったと思う。


「はい、あーん」


 無理をしてすまし顔にいたずらっぽさを加えた表情を見せるすがちゃんは僕の口にリンゴを近づける。僕は緊張で口が動かず、心臓が早鐘を打つように動いていた。


「うっ……」


「あーんっ」


 すがちゃんが少し僕をにらむ。僕は観念して口を開いた。リンゴが僕の口の中に放り込まれる。美味しい。リンゴなんて久しぶりだというのもあるが、こうしてすがちゃんに「あーん」してもらえるからなお美味しいのかも、と僕は表情を緩めないよう細心の注意を払いながらリンゴをいただいた。


「あの……」


 リンゴを二、三個いただいたところで僕はおずおずと申し出た。正直なところ非常に言い出しにくかったのだが、こうしてすがちゃんに甘えるのも恥ずかしい。


「はい?」


「もう自分で食べますから……」


「その手でですか?」


「えっ?」


 僕の右手は半分ほどが包帯で分厚くぐるぐる巻きにされていた。

 そうか、あの男の包丁を振り払った時、手に怪我を。ここにきてやっと僕は昨晩のいきさつをすべて思い出した。


「あっ! あいつはっ! あの男はっ!」


「想さんを蹴り上げて気絶させた後、人に見つかってどこかに逃げて行ってしまいました……」


「逃げた……」


 そうか、よかった。いや、よくない。すがちゃんを襲ったあの男はまたやってくるかもしれない。それを考えると僕はぞっとした。今度はすがちゃんを守れるか、僕には自信がなかった。


「想さん」


 すがちゃんが俯いて膝に手を置いてまるで詫びるかのような姿勢で僕に向かって呟く。僕はすがちゃんがどうしてそんな姿勢を取るのか見当がつかなかった。


「はい」


「あれ…… 私の前の夫なんです……」


 前の夫? あの時のやり取りはとてもそう思えるものではなかった。それにしてもすがちゃんが結婚していたとは驚きだ。


「前の、夫……?」


「ふふっ、びっくりしますよね。あんな人と夫婦だったって言ったら」


「い、いや……」


「それでも結婚前は全然あんなんじゃなかったんですよ」


 ちょっとおどけたように言うすがちゃん。


「それが結婚して一年経ったくらいから、なんて言うんですか? モラハラ? するようになってきて」


 すがちゃんはその表情のまま目を伏せる。


「その上DVまでするようになってきたら怖くなって、逃げてきちゃったんです」


 僕は仰天した。


 目を伏せたすがちゃんは恥ずかしそうに笑った。

 函館まで逃げてきたはいいものの、寒空の下職探しに難渋していたところを長さんに拾われるようにして冨久屋で働くようになったのだそうだ。そこで市役所の支援を受けて離婚の手続きを進め、ついこの間離婚調停を済ませたばかりだと言う。


 そうか、すがちゃんはDV夫から逃げてこの街にやってきたのか。音楽から逃げてきた僕なんかとは違って、自分自身を守る為に逃げてきたんだ。それは意義ある逃亡に見えた。では僕の逃亡にはいったい何の意義があるのだろうか。僕は左手で膝の上の毛布を力いっぱい握り締めた。


 僕は山盛りのリンゴをすがちゃんに食べさせてもらいながら話をした。あの場から逃走したDV夫は、傷害や暴行、強要などの容疑で現在警察がその行方を捜査中だという。

 僕は何かすがちゃんの役に立ちたくて仕方がなかった。それと、さっき考えたようにすがちゃんがまたあの男に襲われる可能性だってある。そう思ったらなんだか無性に心配になってきて、せめて夜冨久屋からすがちゃんのうちまで付き添いをさせてもらえないかとお願いした。するとすがちゃんはその危険性にまでは気づいておらず、不安な表情を見せる。また僕を巻き込みたくない、と散々迷ってはいたが、最後は首を縦に振ってくれた。僕はほっとした。


 午後の長い時間をこうして二人で話した。

 すがちゃんは少し照れくさそうな、だけど嬉しそうな顔をして言った。


「でもこうしてたくさんお話ができたのは良かったです」


「えっ」


「また想さんとの距離が縮まったような気がして」


「……僕もです」


 ついでに僕は僕のこと、特に音楽に関する事について話した。音大の成績が振るわずコンクールにも落ち続けた僕は音楽を捨てたこと。音大を放り出してこうして放浪の旅に出た挙句、結局なぜかまたピアノを弾き始めたこと。あらすじだけだがかいつまんで話した。こんなに自分のことを話したのはすがちゃんが初めてだと思う。なんでこのような情けない話をしたのかはよくわからない。ただ、少しでもすがちゃんに僕のことをわかって欲しかったからなのかもしれない。

 ただ、藍についての話は割愛した。なんだかすがちゃんを傷つける話題のような気がしたからだ。

 すがちゃんは大真面目な顔で僕に音大に帰るよう説得をしてくれた。勿論僕はそれには応じなかったが、なぜか嫌な気持ちにはならなかったし、胸に響いた。すがちゃんに真剣に心配されていることが僕にはなんだか心地よかった。とても心地よかった。僕はありがとうございます、もう少しちゃんと身の振り方を考えますとだけすがちゃんに言った。

 午後の診察で医師から聞いた話では、僕の右手甲の切創は八針縫ったとのことだった。全治二週間。医師の見立てでは、傷は浅くピアノの演奏におそらく支障はないだろうが約束はできない、とのことだった。僕はこの言葉を聞いて胸をなで下ろした。この時の僕はひどく楽観的だった。

 ぶつけた頭部のCTも撮ったが、こちらも全く異常はないと言われほっとした。


 家族と思われたのか、なぜか僕の斜め後ろに座って身を縮こまらせていたすがちゃんは、それはもう涙ぐむほどに安どしていた。僕は晴れて退院の身となった。


◆次回

2022年7月17日 21:00

第15話 二人の食卓

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