第12話 リサイタル
夕方の駅ピアノで会った藍は最高にご機嫌だった。ここで一曲ずつ弾いた僕らは、花屋でなけなしの金を出し合い、ささやかな楽屋見舞いの花束を買う。そこから連れ立って市民ホールへ市電で向かった。その間、藍はにこにこというかにやにやしっぱなしだった。
「なんだよ気持ち悪いな」
「だってさあ、なんかこれデートみたいじゃん」
そう言うとまたにたにたする藍だった。まあ、藍のようにかわいい子とのデートであれば僕だって少しくらいはにやにやするかもしれない。でも今回は普通にリサイタルを聴きに行くだけだ。たったそれだけのことなんだ。僕は自分にそう言い聞かせた。本当にデートに行くのなら僕は藍とではなく……
市民ホールに到着するとプログラムを持って席に着く。かなり後ろで端っこの席だが文句は言えないだろう。びしっと決めた服装の男女がみすぼらしい僕らの格好をいぶかし気に見ている。それに気づいた僕たちは目を合わせて小さく笑った。僕たちがジュラフスキーの「招待客」だなんて知ったらどう思うだろうか。
プログラムはモーツァルト・グルックの歌劇「メッカの巡礼」の「われら愚かな民の思うは」による10の変奏曲 KV.455から始まるおよそ二時間弱の内容だった。このプログラムに記された曲を見ているだけで興奮してくる。これをジュラフスキーはどのように演奏するのか。それを思うと僕も藍もそわそわする。そしてそのそわそわと浮ついた感覚に支配されながら、僕たちはアンコールはどんな曲になるのか勝手な予想を並べ立てるのだった。
リサイタルは僕たちが想像していた以上に最高だった。最高の上にも最高だった。幻想と興奮のるつぼに飲み込まれた僕ら聴衆は手の皮が破れんばかりに拍手しアンコールを求める。そこでジュラフスキーはドビュッシーのアラベスク第1番とプロコフィエフの4つの小品Op.3 1. おとぎ話を弾いた。
リサイタルの間藍がさり気なく僕に寄りかかってきたが、僕は身体を逆に傾けて藍をやりすごした。
リサイタル後に楽屋に向かおうとすると、やはり僕らのわびしい服装のせいだろう、案の定警備員に制止された。わざとらしくジュラフスキーの通訳の名刺を見せると警備員は憮然とした表情に無言で僕たちを通してくれた。僕たちは通路を歩きながら身を寄せ合ってくすくすと笑いあった。
ドアをノックして楽屋に入ると果たしてジュラフスキーと通訳がいた。少し大げさなくらい喜んでくれるジュラフスキー。藍が彼の胸元に飛び込む。
「ジュラフスキー先生っ」
固い抱擁をする二人。僕はその姿にカチンときた。なぜだか分からないがすごくカチンときた。すると藍がこっちの方をちらっと見てにやっと笑う。僕はさらにイラっとした。ジュラフスキーは何か言っていたがなぜか通訳が訳さない。一体何を言っていたんだ。僕は不安になった。藍は「えへっ、やだもう先生ったらあ」と変に照れる。なぜだろう、物凄い不安に駆られる。
それでも僕はごく普通に紳士的な握手を交わす。
「どうですか、気に入って貰えましたか
今度はちゃんと訳す通訳の言葉に僕は答える。
「どれもこれも大変感動しました。僕のような若輩者が言うのもおこがましいことですが、とても勉強になりました。特にリストのエステ荘の噴水は未だにぞくぞくします。あの繊細な曲をさらにあそこまで繊細に演奏できる方がいるのかと」
「そうか、あれを気に入って貰えたのはうれしいよ。
「全部です」
「おお、それは大きな評価をもらえたものです。嬉しいですよ」
「でもあえて言えば……サティのあなたが欲しい(
藍はぴょこんと僕の隣まで駆け寄って僕に寄っかかって来る。
「はは、
「どうかしら? ね、どう思う?」
「そ、そんなの僕が知るかっ」
三人でピアノについて、音楽についていくつか話をした。ジュラフスキーも疲れてるだろうし長居は無用と早々に辞去したが、時間は短くとも僕のピアニスト人生にとってかけがえのない経験となった。
市電でまた駅に戻ってきたころには夜も九時を回ろうとしていた。すっかり気分の高揚した藍はここでもまた駅ピアノを弾かないかと言ってきた。僕もすっかり気を良くしていたのでその話に乗る。
「じゃあさ、どうせやるならシューベルトの幻想曲」
と藍が提案する。
「連弾か」
シューベルトの幻想曲 ヘ短調 作品103,D940。これは連弾作品の最高傑作とさえ言われる名曲で、さらにはなかなかの難曲でもある。
「あたしが
「いいよ、僕が
藍は僕の右側に、そこまで身体を近づけなくてもいいのに、弾きにくいだろう、というくらい密着してきて演奏を始める。
この連弾は時に二人の指が交錯する場面が多くある。指を引っ掛けないようにしないと。それだけではない。僕が担当するペダルの操作も簡単ではない。
演奏はシューベルトの楽曲のご多分に漏れず暗いイメージが先行するものだ。諦観から見えてくる仄かな灯火も吹き消され、夢を砕かれ悲嘆にくれる様子を感じ取る。
藍の左手の指が僕の右手をかすめた。お互いそこも巧く弾いて相手の指を引っ掛けずに済む。僕は藍の演奏を潰さないように弾いていくのが精一杯だった。ふと見てみると藍はいつもより真剣に弾いているようだ。確かにミスもいつもより少ない。
十八分にわたる演奏を終わらせた時、僕は大きなため息をついた。観客はなく拍手はない。それどころか駅員が来て駅ピアノコーナーの閉鎖をする準備を始めようとしていた。
僕に寄りかかって放心状態の藍の背中を叩いて立つように促す。藍はぽつりと、
「よかった……」
とだけ言う
「え、何が?」
すると感極まった様子で僕にぎゅっとしがみ付いてくる。僕は思わず背中をそっと叩いてやった。
「今までの連弾で一番よかった……」
とまたぽつりと言う。
「あのお……」
気が弱そうな若い駅員が僕たちにおずおずと声をかけてきた。ここを閉鎖するのでどいてほしいのだろう。
「あ、すいません」
「……」
僕と藍はピアノ椅子から立ち上がる。見ると藍は顔を子供のように手で拭っている。僕はびっくりした。
「お前……」
「うるさいなあ……」
藍はふてくされた顔と赤い目ををして僕を睨んだ。そしてすぐいつもの藍に戻る。
「あたしおなかすいちゃった」
藍はひょろひょろなくせにいつも腹が減っている。
「ねえたまには違うところ行かない?」
「へえ、例えば?」
「前行こうって言ってたじゃん。あの裏通り」
だめだ! 僕は大声で即答しそうになった。あの通りには冨久屋がある。あそこに入られた日には終わりだ。僕は終わりだ。何がどう終わるのか分からないが、とにかく終わると思った。
「い、いや、あそこはそんないい店ないと思うな。ぼったくりも多いって言うし」
ありもしないことを言って何とか藍の気を逸らそうとする。
「でもあそこって何か雰囲気いいじゃん。ね、行ってみよ?」
だめだ、藍がこうと決めたら絶対曲げないのはこの数週間の付き合いでよおく分かっている。あとは僕自身の手で何とかして冨久屋に行かせないようにするしかない。
大門通についた時には真っ黒い空からぼた雪がばらばらと降っているような状態だった。今シーズンは例年にない大雪で、僕たちはぎゅっぎゅっと音を立てて新雪を踏み歩く。通りには昼光色のLEDがいくつもこうこうと輝いて、降り積もる雪と街路と観光客を照らして幻想的だ。藍は裏通りに入ると通りの居酒屋を外から一軒ずつ覗いて品定めしている。藍が冨久屋の前に来たところで僕は強硬手段に出た。おもむろに藍の腰を抱く。
「こっちのお店がよさそうじゃない?」
藍はまた変に嬉しそうな顔になって頷く。
「うん、じゃこっち見てみよっか」
そして結局冨久屋の二軒隣の店にたどり着く。気分の昂っていた僕たちはそこを皮切りに何軒もはしごしてたっぷり酒と肴を堪能した。リサイタルの興奮とアルコールのせいで僕はすっかり弛緩してしまっていた。
「いやー、もうなにあれー。あのつくね。ふわっふわ」
会計を終えて表に出るとご機嫌な藍が言う。
「いや、カニステーキだよカニ。あれはたまんなかったわ」
そしてご機嫌な僕も言う。
「高かったけどね」
「どうもすいません」
僕を上回る藍の上機嫌は相変わらず続いていて、この後生ガキのお店やバーをはしごし、最後はラーメン屋でしめる、という大豪遊をしてしまった。だいぶ飲んですっかりいい気分だ。それでもさすがにもう遅いので藍をアパートまで送ることにした。珍しく藍も素直に応じる。
「今日はありがと。楽しかった」
「ああ、僕も楽しかった」
「ほんとジュラフスキーの演奏すごかったなあ」
「本当だな」
「それと……」
「うん?」
「あんたとの連弾も最高に気持ちよかった」
「ありがとう。僕も最高だった。あんないい連弾初めてだった」
「へへっ、あたしも」
藍をアパートまで送って僕も部屋に戻るとどっと疲れが出てきた。今日は結構色々なことがあった。固くて冷たいベッドに潜り込んだとき頭に浮かんだのはジュラフスキーの曲ではなく、藍と連弾したシューベルトの幻想曲の方だった。今回の藍との連弾はこれまでにない楽しさだった。
夢を打ち砕かれて悲嘆にくれるようなそんな曲調が僕の中でぐるぐると壮麗に巡る。藍とまたこんな演奏体験が得られればいいな、僕はそう思った。
◆次回
2022年7月14日 21:00
第13話 想の恋
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