第8話 捨てること、逃げること
「今度空いてたら色々案内してくれない?」
不本意ながらもここ十日にわたって日課となった小さな“演奏会”後、「活力亭ラーメン」でタンメンを頼んだ藍は、いつもどおり僕の餃子を二つも無断でつまみ食いした上で何気ない顔で訊いてきた。
「案内? 何の?」
僕は塩ラーメンをすすりながら答える。藍の言うことは時折唐突で僕は面食らうことが多かった。
「? だからこの街の。想ここ長いんでしょ」
「いや、藍よりひと月半くらい長いだけだ。この街のことは何にも。バイト先とうちの往復しかしてないし。案内できそうなのは元町周辺くらいかな」
「それと飲み屋街周辺もだよね」
と藍がからかう。
「うるさいなあ」
「大丈夫なの?」
「何が?」
「生活。それと身体。毎日飲み歩いてるみたいだけどさ」
「おかげさまで大変うまくやってる。余計なことに首を突っ込んでこないでくれ。藍は僕のおふくろか」
「へえ、あたし想のお母さんと似てる?」
藍の声はなぜか嬉しそうだ。
「全然」
「なんだ」
「いやいい意味で全然」
「へえ、そうなんだ」
僕は物心ついた時から今まで母親に良い感情を抱くことが出来なかった。ただひたすら僕に自分の夢想を押し付けるだけで、僕の希望や願望はすべて握り潰されたからだ。
「あんな母親になっちゃだめだ」
僕は店内の賑やかなお品書きをぼんやりと眺めながら呟く。止めていた煙草を久しぶりに吸いたくなった。
「どうして?」
僕は一歳の頃よりトイピアノでピアノの練習をさせられた。小学校に入る前からピアノ教室に無理矢理行かされ、危ないからと自転車にさえ乗せてくれなかった。おかげで高校の時わずかな時間を作り、隠れて練習をしてやっと自転車に乗れるようになった。中学高校大学とすべて母親の意向で進学させられ、僕に自主や自由という言葉は存在しなかった。
「野球もサッカーもさせてもらえなかった。ピアノの練習の邪魔だし危ないという理由で。友達と遊んだ経験もない。学校が終われば家に直行して何時間もひたすら練習の毎日だ。学校の予習復習だってままならなかった。全部あいつのせいだ。あいつのせいで僕は普通に生きることができなかった」
「ふうん」
藍はあまり関心のなさそうな声を吐き出す。
「でもいないよりましじゃん」
そう言った藍の顔は、スープを飲むどんぶりに隠れて僕には見えなかった。
母親のことを思い出したら気が重くなった。このまま冨久屋に行くまでの時間部屋でだらだらしていたら気が塞ぐだけだ。どうせなら今日この時間で観光案内でもしてやろうか。そうすれば僕の気も少しはまぎれるかも知れない。どうせ元町の歴史的建造物をいくつか巡れば時間もいっぱいになるだろう。
自分の塩ラーメンと餃子を食べ終わった僕は藍に声をかけた。
「じゃ、行こうか」
「え? どこ?」
「だから観光」
「さっきは全然気乗りしない顔だったのに。心境の変化? この一瞬で?」
「そ、一瞬で。だからまた次の一瞬で心境が変化するかもしれない。すぐにここを出るぞ」
「やだちょっと待ってよ全部食べてから!」
結局藍が急いでラーメンを完食完飲してから温かな店を出る。今は雪は降っていないが、さすがに寒さは厳しいものがある。安物のコートを羽織った僕たちは凍えながら元町へと向かった。最寄りの電停から十分強で元町の電停にたどり着いた。市電を降りると低く垂れこめた雲から湿ったぼた雪がふわふわとちらつき始めた。僕たちは坂道の多い元町を無駄話をしつつ歩いた。
「でもどうして観光なんて?」
僕は雪に降られながら素直に思ったことを口にした。
「なあんかここって独特の異国情緒みたいなものがあるでしょ。その源流を知りたくて」
「ああ、じゃあここを上がっていった先に領事館跡がある。もう少し先には西欧建築に
「えっと…… もしかして勉強できる人?」
こわごわと僕の顔をのぞき込む藍。
「どうして? こんなのバイト先に置いてある観光パンフレットにだって書いてあるような話だ」
「へえ……」
さっきまでくっつくほど近くにいた藍は僕から距離を取る。
「なんだよ」
「いやあ、勉強できる人の傍にいるとアレルギーが出て……」
「うそつけ、そんなに繊細じゃないだろ」
「へへへっ」
頭をかく藍。
「藍だって随分勉強熱心じゃないか」
「うん、色々なものを見て刺激を受けたいと思って」
また藍がさり気なく僕にすり寄って来るので藍との間隔を空ける。最近の藍はどうしてか僕にベタベタしたがる。それが嫌なわけではないが、どうにもすがちゃんに悪いように思えて気が引ける。
「へえ、意識高い系か」
「そんなんじゃない。そんなんじゃないけど、こういうのいっぱい見ると、なんて言うかこう、表現力とか上がってきそうな気がしない?」
「いや全然」
「そういうとこだぞ」
僕の左胸を人差し指で突いた藍は少しおどけた口調で言う。
「はっ?」
「もっとアンテナを張りなよ。美しいもの、楽しいもの、逆に悲しいものや苦しいもの。それがきっとイメージする力や表現力を高めてくれるんじゃないかな、って」
表現力か。今の僕にはもう関係のないことだ。藍の大きなお世話が僕の心に重くのしかかる。僕のことを表現力に乏しいと叱責した教授たちの声がぐるぐると頭を巡る。
高校までの僕は自分で言うのもなんだが順風満帆だった。だが音大に進学した途端その自信は挫折に入れ替わった。僕が懸命に懸命に努力して到達した域にみんな
「今はこんなに寒いけどさ、イメージする力があれば春のアゲハ蝶をイメージ出来るでしょ。で、表現力があれば冬のさなかでもそれを聴衆に思い起こさせる演奏が出来る。そういうことじゃないかな」
「なんでいちいち」
僕はつい白い息とともにぼそりと呟いた。
「いちいち?」
「僕にそんな説教みたいなことを言うんだ」
そうして捨て鉢になった僕は捨てた。僕のすべてだった音楽を。ピアノを。五本の指じゃない、三本の指でもない。唯一無二でなくては僕にとっても母親にとっても何の意味もないことだったから。
「えっ」
言葉を吐き捨てた僕に藍は驚きを隠せないようだ。僕は言葉を続ける。
「僕はもう音楽は捨てた。捨てたんだ。そんな僕にどうして藍は――」
「捨てた?」
「ああ。だからもう音楽のことでこれ以上僕にかまわないでくれ」
「ほんとに?」
「ああ、ほんとにだ」
「それって名前のことと関係あるの?」
僕はぎょっとした。まさか藍に僕の名前のことがばれているとは思わなかったからだ。
「……どうしてそう思うんだ?」
「え? 勘」
僕は二の句が継げなかった。絶句して藍の方を見る。一方の藍は平然とした顔で言葉を続けた。
「で、捨てた、って簡単に言うけどさ……」
驚いている僕に対し、藍は無邪気かつ不思議そうな顔をして、まるで錐のような一言を僕の心臓に突き立てた。
「要は逃げたんじゃないの?」
最初藍が何を言ったのか分からなかった。次に僕はしばらく言葉も出てこなかった。逃げるだなんて思いもよらなかったからだ。
五秒ほどの絶句後、ようやく僕は藍に向かって「逃げる……?」と一言だけ絞り出した
藍は僕の動揺した様子に驚いたようだった。目を丸くして「う、うん……」と小さく頷く。
「違う」
また僕は声を絞り出す。藍はそんな僕をまだ不思議そうな顔でのぞき込んでいる。
「違うっ!」
思わず藍に向かって大きな声を出してしまった僕に数人の観光客の視線が刺さる。そんなことはお構いなしに少し驚いた表情の藍に向かって僕は叫んだ。
「僕が逃げただって! 何も知らないくせに! 僕は! 僕は! 僕はっ………… 僕は……っ」
そう。そうだ。僕は? 僕は何だ? 何をしてきたんだ? 今まで。
結局音大で目標に遠く及ばず、何も成し遂げてこなかったじゃないか。じゃあ僕は何もできなかったまま尻尾を巻いて逃げ出してきただけだというのか。負け犬のように。
片手で口元を覆い呆然となる。頭痛と吐き気と震えが一気に押し寄せてきた。
僕は何を捨て、何から逃げたんだ。僕は、僕は一体何者なんだ。僕は誰なんだ。僕は。
「想……?」
恐る恐る僕に声をかける藍の声色は僕を気遣うものに変わっている。
「なんかすっごく顔色悪いんだけど」
「何でもない」
「帰る?」
「……そうする」
全身が冷たい汗で濡れているのを感じる。
「あたしの方は別に一人で大丈夫だから、ね。早く帰って休みなね。あ、それとも一緒について行こうか。心配だよ」
「いや、放っておいてくれ」
僕は何も考えられず、藍の言葉から受けた衝撃を受け止めきれていない。
「……う、うん。わかった。それじゃ、ね」
「ああ」
重い足を引きずって僕は来た道を引き返す。後ろから藍の少し心配そうな声が聞こえる。
「ね、明日もあそこで待ってるからさ。ちゃんと来てよね」
何も答えず歩み去ろうとする僕に一呼吸おいて藍が何かを訴えるようにつぶやく。
「あの…… あのさ。あたしも…… あたしだって……」
勢いを増し始めた雪に吸い込まれゆくその声にも僕は答えず、長い坂道をゆっくりと下っていく。僕が雪を踏みしめる音だけが聞こえる。僕は音楽から逃げ出した卑怯な臆病者だ。そんな僕を嘲笑する奴らの声がずっと僕の頭の中でこだましていた。
気が付くと開店一時間も前の冨久屋に来ていた。ここまでどうやって歩いてきたのか。それさえも僕は覚えていない。ただただ僕をあざ笑う声ばかりが聞こえていた事しか覚えていない。そして身体全体が雪まみれでひどく凍えている。
長さんが冨久屋から顔を出す。無様な僕を見て驚いた顔をする長さん。しかし僕の凍てついた姿を見て「お入んなさい」とだけ言って僕を店に入れてくれた。
◆次回
2022年7月10日 21:00
第9話 風になる
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