第7話 ふたりきり

 今年の函館は雪が多いと言う。ついこの間初雪が降ったばかりだと言うのに、今日は昼頃から少し吹雪いていて、これは夜半過ぎまで続くだろうとの予報だった。まだ随分と早い時間帯なのに、この天候のせいか今日の冨久屋には僕しかいなかった。


「ごめんなさい。僕なんか放り出して店仕舞いしてもいいんですよ」


 苦笑いしながらそんな冗談を言う。


「ううん、そんなの気にしないで下さい。一人でもお客様がいらっしゃる限り当店はお休みなんてしません。ね、長さん」


 白のセーターにエプロンを着たすがちゃんが鍋をつつき回しながら少しおどけて答える。最近のすがちゃんは少し明るくて、あの陰のある表情を見せることも少ない。そんなすがちゃんを見ると僕も自然と心が温かくなってくる。特にこうして他にお客さんがいないときはやけに親し気で口調も変わり、僕もすっかり打ち解けて話せて嬉しい。ところが長さんが無表情な顔で意外な一言を口にした。


「それが…… 今日は早めに上がらせてもらえませんか。ちょっとやらなきゃいけないことができてしまいまして」


「まあ」


 すがちゃんは驚いた様子だった。仕事熱心に見える長さんが早退するだなんて、と僕も驚いた。ところが長さんを心配するような口ぶりのすがちゃんはどこかうきうきしているようにも見える。


「じゃ、後は私がやりますから任せて下さい。さあ、急いでください。ねっ」


「ありがとうございます。助かります。では後はよろしくお願いします」


 相変わらずの口数少なさで長さんは早々に店を出て行った。


「さて、と……」


 意味もなく両腕を振り回したすがちゃんはふふっと笑った。


「想さん」


「はい?」


 すがちゃんはなんだか楽しそうな顔をしている。


「一仕事手伝っていただけません? ちょっと早いけど店仕舞いしたいの」


 ちょっとどころかまだだいぶ早い気もした。

 すがちゃんの言う手伝いとは、ガラス戸で囲まれた冨久屋に雨戸をかけるという仕事だった。吹雪く中これはちょっとした重労働で、僕たちはようやくのことでこれを終わらせる。でも重労働と言った割に、僕たちはどこかはしゃいで笑いあっていた。

 雨戸を閉めるとすがちゃんは外に近い照明を半分以上消してしまう。これならどこから見ても冨久屋は閉店だ。


「客がいる限り店仕舞いはしないんじゃなかったんですか」


 僕が服についた雪を払いながらちょっとからかうようにすがちゃんに言う。


「あら、想さんは『特別な』お客様だからいいの」


 店内の明かりの半分を消しながらすがちゃんが意味深な顔で答えるものだから、僕は少し胸が苦しくなって尋ねる。


「と、特別ってどういうことですか?」


「さあ? どういうことかなあ?」


 ちょっとからかうようなすがちゃんの笑顔が僕の胸に刺さる。僕よりずいぶん年上なはずなのに可愛い。僕はどぎまぎした。


 僕はいつもの席へ、すがちゃんが一番見える僕だけの特等席へ座る。すがちゃんもいつものカウンター奥へ入り何かを作り始めた。


「さっきからずっと何を作っているんですか」


「いいもの。きっと喜んでもらえるんじゃないかな。あと少しで出来上がり」


 #出汁__だし__#と醤油のいい匂いが広がる温かな店内。僕はいつもより少し大胆になって親し気に色々なことを聞く。すがちゃんは嫌な顔ひとつせず答えてくれた。すがちゃんは帯広の大きな食肉加工工場の家に生まれたそうで、そこでの生活などを楽しそうに話してくれた。かわりに僕のことも色々と訊かれた。音大での生活やクラシックの事などが主だった。だけど、僕が音楽を捨てたことについては何も言わなかった。


 駅ピアノでの話になるとまたすがちゃんはうっとりとした表情で僕のピアノを褒めてくれる。僕のピアノをここまで褒めてくれる人はすがちゃんしかいない。「また聴かせてね」とも言われたので僕はお安い御用ですとつい安請け合いをしてしまった。



 話の間中、建付けの悪いトタンの雨戸には風と雪が当たる激しい音がしていた。時折隙間風も吹きこんでいる。


「さあできたっ」


 すがちゃんの暖かくて優しい声が狭い店内に響く。すがちゃんは二つのお椀を僕の前とその隣の席に置く。さらには#氷下魚__こまい__#の乗った皿をその二つのお椀の間に置いた。


「これは?」


「日頃のご愛顧に感謝して特別サービス」


「そんな、ご愛顧だなんて、僕は何も……」


「あら、じゃあせっかくの私の手料理、召し上がって下さらないって言うの?」


 すがちゃんは以前にも見せた細い眉を寄せたわざとらしい困り顔を悲しそうに浮かべる。そんな顔をされたら僕には抵抗する#術__すべ__#はない。


「……遠慮なく頂戴いたします」


「よかった」


 すがちゃんは笑顔のまま僕のすぐ隣にちょこんと座ると「さっ熱いうちにいただきましょ」と言ってお椀をふうふう吹きながら食べ始めた。お椀の中をのぞいてみると、見たことのないぷにぷにしたものと魚の切り身がいっぱい入った汁だった。不審げにお椀の中身をつつく僕にすがちゃんが声をかける。


「ごっこ汁、食べたことない?」


「ごっこ汁、ですか。残念ながら初めて聞きます」


「ふふっ、実は私もここに来てから初めて知ったの。この辺りでしか獲れない魚の鍋ものなんですって。じゃあ想さんの初体験、どうぞ?」


 大胆な一言を受けこわごわと一切れ口にする。なんだこれ、ぷるぷるでくにくにだ。コラーゲンだろうか。さらに食べてみるとぷちぷちした卵に濃厚な肝と魚の切り身と色々な味がつまっている。昆布だしでしょうゆ仕立ての熱々な汁がおなかに#沁__し__#みる。体が芯から温まる。隙間風の入り込む冨久屋の室温も少し上がったような気がした。僕は熱々の燗酒を飲みながらすがちゃんが作ってくれた熱々のごっこ汁を堪能した。「ごっこの肝はアンコウのより美味しいんですって。でも私、アンコウ食べたことないんだけど」と肩をすくめて笑うすがちゃん。

 僕たちがごっこ汁を食べ終わると、すがちゃんは#氷下魚__こまい__#も勧めてきた。


「明日になったらもう捨てるしかないものなの。本当はいけないんだけどよかったら食べて」


 と初めて見聞きする茶目っ気のある表情と声で僕に勧めてくる。口調もいつもと随分違っていて、たったそれだけのことなのに僕は胸が痛くなった。#氷下魚__こまい__#を裂いてはかじりながら、さらには機嫌をよくしたすがちゃんが出してきた日本酒にやたら合うチーズなどで僕はだいぶ酒が進んで、少々飲み過ぎてしまった。すがちゃんも僕に勧められてお猪口一杯のお酒を飲んだが、それだけでもう真っ赤になる。それがまたかわいい。僕たちはお互いの話や他のお客さんのこと、長さんのことなどを笑いながら話すうちにすっかりリラックスしていた。


「私想さんがうらやましい」


「え? 何がですか?」


「あんなふうに自由自在に鍵盤を操れたら気持ちいいだろうなあ、って」


「いいえ、僕なんて全然ですよ」


「そんなことない。それにとっても優しい音。やっぱり、優しい人だからあんな優しい音色が出るのね」


 すがちゃんはカウンターにゆっくりと突っ伏すとじいっと赤い顔と熱い目で僕を見つめる。


「まさか、僕なんて優しくもないですし、表現力ではいつも落第生で……」


 僕はすがちゃんの視線にいつもとは違う何かを感じていた。熱っぽい瞳で見つめられると僕は胸が熱くなってくる。吹雪の音がして隙間風の吹く店内ですがちゃんはささやくように僕に話しかけた。


「でも私にとっては優等生、ううん首席」


「そんな……」


 僕は熱く語るすがちゃんから目が離せなかった。釘付けだった。言葉に詰まる。胸が熱く苦しい。

 黙った僕もすがちゃんの真似をしてカウンターに突っ伏した。そして手を伸ばせば届くほど近い隣のすがちゃんを見つめる。すがちゃんも僕をじいっと見つめる。さっきからずっと会話は途切れていた。吹雪の音だけが聞こえる。ただでさえ狭い席と席の間でお互いの肘が近い。少し飲み過ぎた僕は大胆な気分になってゆっくりと身体をすがちゃんに寄せる。いつの間にかお酒を飲んだ時よりも赤くなっているすがちゃんもどこか真剣な顔で僕の方にそっと身体を近寄らせてくる。その瞳の輝きは白熱灯の明かりを反射してぎらぎらとして熱い。

 すがちゃんは真っ赤な顔をして得体の知れないほほ笑みを浮かべる。それはとても美しくどこかしら怖かった。甘ったるい感覚が僕の胸を充たす。僕の心臓の鼓動が破裂しそうなほど激しくなった。僕はこれ以上はないほどすがちゃんを意識した。でもすがちゃんはなぜこんな目で僕のことを。


「どうして……」


 僕はかすれ声を出す。どうしてそんな目で僕を見つめるんですか。と言おうとして僕は声に出せなかった。


「ふふ、ジムノペディがとってもきれいだったから、かな? そのお礼」


 赤くなったすがちゃんの切ない笑顔に僕の胸は押し潰されそうになる。


「それと荷物を持ってくれた時のお礼も」


 少し真剣な表情に変わるすがちゃん。


「それに最近想さん元気がなかったというか、少し悩んでいるみたいだったから。だから元気づけてあげたいなって」


 すがちゃんは苦笑いを浮かべる。


「でもなんだか私の方が……」


 ぽつりとそうつぶやくと視線を僕から外す。僕はこのどこか陰のある美しい表情に見惚れて何も言い出せなかった。

 僕は意を決し、肘をすがちゃんの方にすっと動かす。僕たちの肘がそっと触れ合った。僕の心臓が大きく高鳴るよりも早くすがちゃんは席を立つ。


「さっ、そろそろ店じまいしようかなっ。想さんももうお酒空けちゃったでしょ」


 すがちゃんは心なしか少し上ずった声とぎこちない笑いを浮かべて足早にカウンターの裏に戻る。僕たちの使っていた食器を手早く片付けた。そして食器を洗いながらぽつりと漏らす。


「想さんは今……」


「はい」


 すがちゃんははっと我に返ったような顔をして慌てた様子になる。


「……ううん、なんでもない。なんでもないの。ごめんなさい」


 なぜかうろたえて後片付けや洗い物に専念する。が、しばらくしてまたぽつりとつぶやいた。


「私ね」


 今度はどこか自嘲的な笑みを浮かべるすがちゃん。


「私、本当はだめなの、こういうこと……」


 僕には言っている意味がよく分からなかった。


「こういうこと、って?」


 すがちゃんはそれには答えず、暗く寂しそうで悲しい目をして笑うだけだった。


 片付けも終わると店の戸締まりを確認し、僕たちは店の裏手から表に出る。驚いたことに吹雪はすっかり止んでいた。街はすっかり雪に覆われ、まばゆいほどの月明かりと雪の乱反射で僕たち二人は銀色に照らされる。


「月がきれい」


 すがちゃんの澄んだ声に僕も月を見上げる。


「本当だ。きれいですね、月」


 満月も近いこうこうと輝く月からすがちゃんに視線を移すとやはり空を見上げていた。その月に照らされた顔が美しくて僕は息を呑む。僕の視線に気が付いたのかすがちゃんがこっちの方を見る。また真正面から目が合う。月光に照らされたすがちゃんは一瞬、すごく真剣で何かを言いたそうな顔をする。その悲し気な視線に僕は言葉を失う。が、すぐに何か思い直したような、それでいてどこかしら諦めたような顔になり視線を外した。すがちゃんの口調もいつも通りになっている。


「えと、じゃあ、私こっちですので……」


「あ、僕送りますよ。もう遅いですし」


 僕は少しでも長い時間、それこそ一分一秒でも長い時間、すがちゃんを独り占めしていたかった。


「あっ、それはそのっ、お気持ちだけいただきますっ、じゃっ」


 なぜか慌てるすがちゃん。いそいそと立ち去ろうとする。僕は転ぶんじゃないかと心配になってすがちゃんを追いかけて追いつく。


「やっぱり心配です。どうかご一緒させて下さい」


 とすがちゃんにお願いした。するとすがちゃんはピタッと立ち止まってうつむく。やがてゆっくりと顔を上げたが、その顔はとても嬉しそうでいてひどく寂しそうでもあった。そしてその目にはやはり暗い陰のようなものが見え隠れしている。


「優しいんですね。本当に」


 だがその表情は僕を拒絶するようにすぐ硬くなった。


「でも本当にお気持ちだけ…… それにすぐそばなの。だから大丈夫。やっぱりこういうのはだめなんです」


 月に照らされ、固い声と口調でそう言うと、さっきとは比べ物にならない速さですがちゃんは小走りで走り去り、僕は置いていかれてしまった。さくさくと新雪を踏む音だけがいつまでも聞こえていた。


 月光が降り注ぐ中、一人孤独に凍えながら帰宅した僕は、冷気が満ちた部屋で着替えて震えながらベッドに入る。冷たい布団の中で手足がかじかむ身体を丸め、二人っきりの冨久屋での温もりを思い出してぶるっと震える。すがちゃんの「本当はだめなの、こういうこと……」の意味が分からない。今度会った時にでも聞いてみようかと思ったが、軽い気持ちで聞いてはいけない気もする。色々なことを考えるうち今日の冨久屋での熱っぽい記憶に包まれて僕は浅い眠りについた。ほんの一瞬の肘の感触、すがちゃんの火照ったかのような表情。絡みつくような熱い視線。どれも思い出すたびに全身が熱くなる。ゆっくりと浅い眠りに落ちた後も、頬を赤らめ熱い目で僕を凝視するすがちゃんの顔が何度も何度も夢に現れては消えていった。


◆次回

2022年7月9日 21:00

第8話 捨てること、逃げること

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