第6話 藍の師

 その翌日の午後、やっぱりすることなんかない僕。相変わらず不安と虚しさと空腹を抱え、気は進まないが駅のピアノに行くほかにできることはなかった。皮肉な話だが、今の僕にはピアノくらいしか暇を潰せるものがなかった。


「おっ」


 ピアノから少し離れた場所に陣取っていた藍がこちらに気付いて笑顔を浮かべて近寄って来る。くっつきそうなくらい近づいてきたので僕は適切な距離を保った。

 大学生くらいの男性が、人気TVアニメのオープニングテーマだったと思しき曲を弾いていた。元が少し難しい曲で、演奏もそこそこ巧い。それなりに練習しないと無理だろう。が、特に興味を引く曲でもなかったので僕は彼女に話しかけてみた。


「仕事先はどうでした」


「まあ悪くはなかったかなあ。お客さんの反応も少しはあったし」


 満足げな彼女の表情が少し妬ましい。


 アニメの曲を弾き終わると七、八人の観衆から嬉しそうな歓声と拍手が巻き起こる。僕たちの演奏の時とは反応が全く違う。


 結局僕も一曲弾かされた。シューベルトの菩提樹だ。雪が降り始めたこの街には似合いの曲だと思った。藍はチャイコフスキーの花のワルツを弾く。季節外れな曲のようにも思えたが、いざ聴いてみるとひらひらと舞う雪片と風に揺れる花びらのイメージが不思議と合う。僕はやはり彼女の息がつまるほどの表現力に圧倒されるがそれを表には出さなかった。いずれもさっきと違って拍手らしい拍手はほとんどない。

 そしてその後は遅い昼食へ。今日は一昨日とは別のラーメン屋「あじとよ」へ藍を連れて行った。前回の店より少々値は張るがそれ以上にボリュームがある。幸運にも行列はほとんどなく、僕たちは思ったより早く店内に滑り込んだ。彼女はもうすっかりこの街の塩ラーメンを気に入り、夢中になってずるずると麺をすする。

 僕は今まで駅ピアノを前にした時にだけ簡単にピアノの話をするくらいだったことに気付いた。僕たちが主に交わしていた会話と言えばこの辺りの飲食店や宿やバイト先の話ばかりだった。僕は思い切って音楽の話を切り出してみる。


「相当お上手ですけど、どこで習ってきたんですか?」


 丼ぶりから顔を上げた彼女はなぜか不思議そうな顔をした。


「どこって、色々?」


「いや、それじゃ全然答えになってないじゃないですか」


 僕は失笑した。


「うーん、小学校に入ってすぐKAWAHA音楽教室で習い始めたのが最初」


 そのあまりにも普通の習い事的な回答に僕は声が出なかった。


「まあ三回でやめさせられちゃったんだけどね」


 行儀悪く麺をすする藍。


「えっ、三回?」


「そ」


「どうして……?」


「うるさかったみたい。質問だらけで。『ここはシの音の方がきれいなんじゃないですか?』 とか、『ここはゆっくり弾いた方が気持ちいいんじゃないですか?』 とか『どうしてここはこの黒鍵でなくちゃいけないんですか?』 とかね。まあとにかくうるさかったらしいの。小さい時から口達者だったらしいし」


 涼しい顔で塩ラーメンを食べる藍を前にして僕は絶句した。なんだかまるで天才によくありそうなエピソードみたいだ。それでは彼女も、その天才の一人なのか。


「じゃ、じゃあ、それ以外に一体どうやって音楽を、ピアノを教わったんですか。誰かの師事を受けたとか」


 彼女は割りばしを持った左手の人差し指で自分のこめかみを押さえ考え込んだ。


「うーん……」


 これといった答えが出てこない様子で悩む藍。僕は二度驚いた。それでは彼女はまともな教育を受けずにあれほどの演奏をするまでになったというのか。


「ああ」


 彼女の目が輝いた。


「どうしました」


「いた。いたわ。あたしの先生」


 彼女は少し身を乗り出して、まるで秘密を打ち明けるようにして囁いた。


「丸山絵里子とアルゲリッチ」


 アルゲリッチ! 丸山絵里子は全く知らないが、アルゲリッチの師事を受けたと言うならなるほど納得かも知れない。それくらい藍の演奏は独創的で、誰にもできるものではなかったからだ。


 一方で彼女はいたずらっぽいというより吹き出すのを堪えるような表情になっている。


「驚いた?」


「そりゃもちろん、めちゃくちゃ驚きましたよ。まさかアルゲリッチの弟子とこうして会えるだなんて……」


 少々興奮する僕を尻目に彼女はスマートフォンを取り出して、音楽プレイヤーアプリを起動する。僕はてっきり二人が一緒に写った写真でも見せて自慢するのではないかと思っていた。


「はいっ、48枚組のドイツ・グラモフォン録音全集全部ダウンロードしてるんだ。これを毎日聴いてイメージトレーニングしてるの」


「は?」


 言葉を失った僕を前にして、人を食ったような彼女のにやにや笑いは止まらない。


「誰も直接師事を受けたなんて言ってないでしょ。私はこの演奏を毎日聴いて自分の演奏の参考にしてるんだ。そりゃもちろん簡単にできることじゃないけどさ」


 ばかにされている。間違いなくばかにされている。僕はかっとなってしまった。


「ひどいじゃないですか! 僕はもうすっかり!」


「早とちりしたのは想の方だもん。想ってカワイイ」


 僕の怒りや恥ずかしさなんてお構いなしににやにや笑いをする藍。僕は半ばむきになって彼女に食いついた。


「じ、じゃあ丸山絵里子は」


「小一の時の音楽専科の先生」


 大きなため息が出る僕。


「話にならない」


「でも、丸山先生がいなかったらあたしピアノなんてやらなかったな。あたしの疑問や意見をひとつひとつ、一緒になって考えてくれたから。たとえ答えが見つからなくてもね。だからあたし音楽って面白いなあ楽しいなあって思えるようになったのよ」


「そういうものですか」


 どうでもいいことだった。僕はまたため息を吐いた。


「うん、そういうものなの。少なくとも私にとってはね」


 そう言うと笑顔の藍はいつもの通り丼ぶりを両手で持ってスープを豪快に飲み干した。

 でも、僕もアルゲリッチのCD集、聴いてみたいかも。


 その日もそのまま解散となり、夕方に冨久屋へ行く。そこには客の姿もなく長さんもおらず、すがちゃんだけがいた。


「あ、いらっしゃい」


「あれ、長さんは?」


「今日は少し遅いみたいです」


 いつも以上の笑顔で答えるすがちゃん。それがすごく可愛らしいしくくすぐったいけど、理由がわからずどうにも気になる。もしかしてこの間二人きりで外にいたことと関係あるのだろうか。


「ふうん」


 すがちゃんがお通しとおしぼりを僕の前に出してから笑顔で語りかける。


「今日は早かったんですね。今お燗出しますね。煮込みでよかったですか」


「はい」


 お通しをつまみながらこの間すがちゃんの買い物に出くわした時のことを思い出す。ああいうのを「いい雰囲気」と言うんじゃないだろうか。僕も自然と顔がにやける。そのすがちゃんが口を開く。


「でもよかった、想さんお元気そうで」


 僕はすがちゃんが言った「お元気」の意味が分からなかった。


「お元気?」


「そうです。一日? 二日? 初雪の日。かなーり酔ってらしたんですよ」


 ふふっと笑うすがちゃん。


「え、そうかなあ?」


「あら。じゃあ、その時のこと覚えてます?」


「あ ……いや あれ? ……いやさっぱり」


 なんてこった。何も覚えていないぞ。僕は青ざめた。


「ほら」


 すがちゃんは少し笑いながらも、かつ少しとがめるような目つきで僕を見る。その笑顔が僕の胸に突き刺さる。僕は慌てた。


「な、何か言いました? 何かやらかしちゃいましたか僕っ?」


 思わず椅子から立ち上がり、身を乗り出す。


「いいえ。あ、でも少し絡んできたかなあ?」


 すがちゃんは少しとぼけた顔で小首をかしげた。


「すっ、すみませんでしたっ!」


 僕は立ち上がったまま頭を下げる。


「ふふ、やっぱり覚えてないんですか?」


「いや、それがさっぱり……」


 絡まれたと言っているにもかかわらず、すがちゃんは慈愛に満ちた笑みを浮かべた。


「いいんですよ。何か面白くない事でもあったんでしょう? 私全然気にしてません」


「以後気をつけます。すいませんでした。面目次第もございません」


「いいえ、今後ともまたごひいきにしていただければそれで構いませんから」


「はい。暖かいお言葉痛み入ります」


 そこへ大きなビニール袋を抱えた長さんが狭い通用口から身を縮めて入ってきた。


「長さん今日はどうされたんですか」


 長さんは狭い厨房に入ると大きなビニール袋をほどきながらぼそりとつぶやく。


「モツを補充しておこうと思いまして」


 長さんはビニール袋をほどくと、その中身をもつ煮込みの鍋に放り込んだ。


 冨久屋で今日も深酒をして帰宅する。薄く冷たい布団に潜り込んだ僕は、今日すがちゃんが初めて見せた様々な表情に胸を温かくし眠りについた。その合間合間に藍のしてやったりといった笑みが頭に浮かび、その都度僕は少しイラっとした。


◆次回

2022年7月8日 21:00

第7話 ふたりきり

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