第5話 すがちゃんのお買いもの

 午前中で今日の仕事を終えた僕は市電の電停でんていに向かって歩いていた。この間初雪を迎えて以来函館は例年以上に降雪量を増やしすっかり北国らしい景色と寒気になっていた。

 この寒さにはかなわない。東京とはえらい違いだ。僕は背中を丸めて曇天模様の街中を足早に歩く。


 すると聞きなれた大きな声が背後から聞こえた。


「想さんっ」


 二十メートルほど後方から聞こえたそれは、間違いなくすがちゃんの声だった。僕は勢いよく振り向く。思わず顔がゆるむ。


「ああ、すがちゃん」


 ちょうど目の前の業務用スーパーから出てきたところだろうか、大きなエコバッグをいくつも抱えているすがちゃんは、今日もまたペンギンのようによたよたとこちらに向かって歩いてくる。嬉しそうな顔で歩きながら話しかけてくるすがちゃんを見て、僕もきっと嬉しそうな顔をしていたと思う。


「どうしたんですか? こんなところで」


「バイトの帰りです。すがちゃんこそどうしたんですか」


「買い出し」


「ずいぶん大荷物ですね」


「車の修理まだ終わらなくて。ふふっ、でもこう見えて私結構力持ちなんですよ。よいしょっと」


 いくら力持ちとは言えさすがに持ち過ぎだと思った僕は、すがちゃんの荷物の殆どを半ば奪うようにして取り上げた。この間と同じように「もう」と不服そうな声を上げるすがちゃんだったがそれ以上文句は言わず笑顔を返してくれた。

 冨久屋へ行くための電停で僕らは談笑する。その楽しさでさっきまでの寒さはすっかりどこかへ吹き飛んでしまった。


 一連の会話の中で、僕は自分のことを見聞を広げるために大学を休学して、東京から北へ北へと流れていくうちにここにたどり着いたと話した。一部嘘もあるけど大体本当だ。すがちゃんは帯広生まれの帯広育ちで地元の短大卒業後、やはり最近になってこの街に来たのだという。「じゃあお互いよそから来たもの同士ですね」と僕が言うとすがちゃんは「そうですね……」と遠くを見るような眼で寂しげにつぶやいた。前から気になっていたことだが、すがちゃんは時々そんな寂しい目や悲しそうな顔といった暗い表情を見せることがあった。僕はその憂いを湛えた面差しにどきっとさせられることがある。すがちゃんはその胸のうちに一体どんな影を抱えているのだろうか。それは僕の抱える影と似たようなものなのだろうか。僕たちの間にしばしの沈黙が流れた。


「そうだ」


 急にすがちゃんが僕に声をかけてきた


「えっ」


「この間お会いした古いお友達ってどなたなんですか?」


 邪気のない顔で僕に問いかけるすがちゃん。


「想さんは『あまりいい再会でもなかった』っておっしゃってましたけど、なんだか全然そんなふうじゃなくて」


「と言いますと?」


「でもあの日の想さんとてもいい表情でしたから」


「いい表情、でしたか?」


「はい、なんて言うかこう優しい表情で、今までにない感じで、『ああ、何かいいことあったんだなあ』って私思いました」


「何かいいこと、ですか……」


「ええ、でも嫌なこと訊いちゃったのならごめんなさい」


 捨てたはずの音楽の方から僕に近づいてきたのだろうか。僕は初めて聞いた藍の演奏を思い出しながらそんなことを考えた。だがやはりその再会は僕には苦み走っていて、すがちゃんが言うような甘いものとは感じられなかった。


「……想さん?」


 恐る恐るといった感じのすがちゃんの声にはっと我に返る僕。


「ああ、うん、今考えていたんですがやはりいい再会ではなかったですね…… すいません」


「あ、いえ、こちらこそ変なことを訊いてすいません……」


 すがちゃんは叱られた子供のようにうなだれてしまった。


 電停でんていに市電が到着する。僕はいくつものエコバッグを持ったまま市電に乗り込む。


「えっ、あっ、あのっ」


「今日はもう暇ですから、きちんと冨久屋までお送りさせて下さい」


 そうするとすがちゃんはあたふたしながら必死に断ろうとする。しかし、もう市電に乗ってしまった以上荷物を置いて途中下車するわけにもいかない。大げさに恐縮するすがちゃんをなだめながら僕はすがちゃんと冨久屋最寄りの電停を降りた。

 電停から歩いて冨久屋にたどり着く。二人でお店に入る僕たちを見て、長さんは無言だが少し優しい目になったような気がする。

 僕もここまで荷物を運ぶという目的を達成したのでそろそろ帰ろうかと思った。


「あ、せっかくですからちょっと待ってください」


 そう言うとすがちゃんが僕の目の前に湯飲みと小皿を置く。


「あの、大したものじゃないんですが、もしお時間があったらどうぞ」


 すがちゃんがおずおずと差し出してきたのはほうじ茶と小さな中花ちゅうかまんのようだった。

 熱いほうじ茶と中花まんをいただきながら僕とすがちゃんの話は弾んだ。と言っても自分の中に秘めた苦悩といった僕自身の深層について話すことはなかった。それになんとなくだが、すがちゃんも人に言えないことがあって、それを全部僕には語ってはいないだろうなとも感じた。すがちゃんが人には言えない何か。それがきっとすがちゃんの時折見せる暗い表情と関係しているのだろう。


 僕はスマホを見る。


「おっと。長居しちゃいけませんね。もうそろそろ行かなくちゃ」


「あっ、なんだか引き留めちゃってごめんなさい」


「いえ、いいんですお気になさらず。それじゃまた来ます」


「はい、先ほどは本当にありがとうございました」


 どうということのない会話を交わす。だけどその一言一言が嬉しくて心が温まる。


 うちでしばらく時間を潰した後、僕はまた冨久屋に行った。いつも通りに一人で黙々と飲む。

 夜も更けてきて常連客もほとんどいなくなったころ、僕の目の前に大きめの角皿が置かれる。


「これは……?」


「何って、見ての通りババガレイの煮つけですよ」


 不思議そうな顔をする僕に、にこやかな笑顔でこともなげに応えるすがちゃん。


「いや、どうしてですかってことで…… 注文してませんし」


「ええ、これは私からのサービスです。今日はありがとうございました。おかげで本当に助かりました」


 また深々とお辞儀するすがちゃん。


「いやいや何もそんな大したことじゃないですし、いただく理由がありません」


 別にこんなものが、と言うのはなんだが、欲しくて助けたわけではないし、僕にとっては大変な高額メニューをサービスされたらかえって申し訳ない。するとすがちゃんは細い眉根を寄せて、今までで一番の困り顔で僕に言う。


「じゃあ、私からお願いされた、って理由はどうです? 想さん、私からのお願い聞いていただけませんか?」


 その初めて見る眉根を寄せた困り顔に僕はドキッとした。今までのすがちゃんと全く違う感じの顔だった。僕にはもう断る気がすっかり失せた。


「は、はい。では遠慮なくいただきます」


 僕は早速箸をつけた。すがちゃんがのぞき込むようにして聞いてくる。


「美味しいですか?」


 美味しい。煮魚なんてどれくらいぶりだろう。


「もちろん美味しいですよ」


「これ私が作ったんです」


「えっ」


「普段はあまり作らないんですけど、たまに忙しい時とかは私が手伝う程度には作ることもあるんですよ」


 つまりこれはすがちゃんの手料理なわけだ。僕はさらに感激した。


「それは…… 嬉しいです!」


「喜んでいただけてよかった」


 すがちゃんの笑顔が眩しい。黙って僕は煮魚を食べていると、すがちゃんも黙って僕の方をずっと見ていた。


「想さんは優しい方ですね……」


 すがちゃんがそうぽつりと漏らした。


「え? いやそんなことは全然ないですよ」


 僕は角皿から顔を上げてすがちゃんを見る。すがちゃんはまた暗さと悲しさとがかすかに混じった笑顔を見せていた。


「優しいですよ」


 なんだろう。僕はすがちゃんのほほ笑みの中に寂しさのようなものも感じた。


「男の方は優しいのが一番です。想さん。その優しさをずっと忘れないで下さいね」


 すがちゃんは悲しそうな瞳でどこか遠くに目をやった。


◆次回

 2022年7月7日 21:00

 第6話 藍の師

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