第4話 暗雲
昨日一昨日に続いて今日も駅ピアノへ足が向いてしまった。
駅のホールに着くと、ピアノの音が朗々と響いてくる。だが藍のピアノではない。ピアノ教育に熱心な親に稽古をつけられた子が、度胸試しに弾かさせられているのだろうか。バッハのニ長調ミュゼットがほほ笑ましい。たどたどしくも相当練習を重ねたであろう演奏を聴きながらピアノが見えるところまでたどり着くと、果たして小学校低学年らしい女の子が、母親に見守られ真剣な表情でピアノを弾いていた。
願わくば彼女が音楽を捨てるような人生を送りませんように。
他の奏者の演奏を聴いていると、いつの間にか僕のすぐ隣に彼女が、「藍」が立っていた。その気配のなさはまるで忍者のようだ。僕は少しビクッとする。
「想の気が向いてくれてよかった」
横目で少し僕を見上げながら得意気にほほ笑む彼女の言葉に、とっさに答えられる台詞がなかった僕は、彼女の言葉をあえて無視し話題を変えた。
「宿はどうでした?」
「ホテルキンク駅前っていうのに泊まったんだけれどね。もう最高! 久しぶりにぐっすり眠れた。女一人で泊まるのってもっと嫌がられると思ってたけど、ここではそんなことないのね」
「それはよかった。ちょっと離れたところの温泉街も安くていい宿が多いんですが、駅に近い方がいいと思って」
宿の話にはすぐに飽きたようで、藍は興味津々といった表情で僕に訊いてくる。
「ね、それで今日は何弾くの?」
僕は憮然として答えた。
「何も」
「え、そんなもったいない」
「もったいないですか」
「もったいないって。あ、あたし行ってくるね」
大学生くらいの奏者が国民的アニメ映画の挿入曲の演奏を終えたのを見届けた彼女は、速足でピアノまで歩み寄る。少し気取った様子でピアノ椅子に座る。
藍はこっちを見てにやりとすると大げさに手を振り上げて弾き始めた。
今度の曲は僕にもすぐに分かった。幻想即興曲、ショパンの即興曲第4番
音がまるで風圧の様な圧力となって、僕の心と全身に圧し掛かってくる。
僕は圧倒された。音大で僕を打ちのめした奴らの演奏を聴かされた時とは比べ物にならないほど圧倒された。音大の連中もこの演奏を聴けばたじろぐに違いない。だがやはりミスがひどく多い。それが惜しい。
彼女は一体どこでこれほどの演奏を学び、表現力を身に着けてきたのか。
目も当てられないほど多いミスを差し引いても、とてつもない凄みのある演奏だった。確かに技術は低いが、それを帳消しにして有り余るほどの表現力だ。独創性もある。僕は爪が食い込むほどに自分の手を握りしめていた。なんという才能なんだ。僕は胸の奥から疼くような嫉妬がこみ上げてきた。
演奏が終わると昨日のようにちらほらと拍手が起きる。彼女は少し得意げな表情をして僕の方に小走りで戻ってきた。僕は拍手もせずにただ彼女を黙って見つめていた。動悸が止まらない。ただただ叩きのめされた気分が止まらない。嫉妬と羨望と自分への怒りが溢れてくる。昨日の演奏同様、僕は心を激しく揺り動かされていた。
僕の隣に立った彼女は何かを期待するような目を向ける。
「ねえ、だから想は何を弾くの?」
僕は何も答えなかった。いや、答えられなかった。昨日会ったばかりの歳の近い女性の演奏に今日も僕は打ちのめされていた。同時に彼女の演奏にひどく昂揚していた。それだけ素晴らしい演奏だった。打ちひしがれつつも
彼女に促されたからというわけでもないが、僕は無言でゆっくり歩いてピアノの前に立ち、ピアノ椅子に座った。
深呼吸をする。僕が引く曲はフォーレの「夢のあとに」だった。これは本来は歌曲で、夢で出会った幻想的で美しい女性のことが歌われている。だがやがて夢は覚める。夢から覚めた男は叫ぶ。夢よ帰ってきておくれと。まるで僕のようだ。だが男はまだ知らない。叫び疲れた男はやがて背を丸め、奪われた夢の記憶を胸にみすぼらしく生きていくしかないことを。
そうだ、僕や両親の見た夢は分不相応なものだったのだ。男が見た夢のように、現実には決して手に入らない幻想だったのだ。僕らが見た夢は、彼女のような人間が見るにふさわしい。
絶望感に押し潰され、すっかり疲れ切って演奏を終えた僕は足を引きずるようにして彼女のもとへたどり着く。あまりにもミスが多かった。技巧的にも音楽的にも明らかに落第点の出来だ。
「やっぱりあんたすごいのね」
ひどく感心したような表情で藍が声をかけてくる。
「全然」
素直に感嘆する彼女の声に、僕は疲れ切った声で答える。
今は数人の高校生がピアノを囲んで騒ぎながら不慣れな手つきで最近流行りのPOP′sをつま弾いている。
「どこがそんなにすごかったって言うんです? あんな下手くそな演奏」
僕はいら立ち紛れに彼女に訊いた。下手くそなPOP'sの演奏が耳障りだった。
「苦しそうだったから」
「え?」
「だってとっても苦しそうで辛くて悲しい演奏だったから」
彼女はどこか遠くを見ながら呟くように答える。彼女の横顔の高い鼻が印象的だった。
僕はまるで自分の心を見透かされたようで気恥ずかしくなり「そうですか」とだけ答えて、ピアノを前にしてはしゃぐ若者たちに目をやった。
彼らのようにああしておもちゃのように接する分にはまだいい。それだけで済むならまだ幸せだ。だが彼らの目の前にあるあの黒い箱は、いくらでも人を苦しめることができるのを僕は身をもって知っている。
「ね、今日はどこに案内してくれるの? この前と同じとこ?」
急にいつもの調子で明るく僕に問いかける藍。
「はい?」
言っていることがよくわからなかった。
「あたしもう腹ぺこ。今日こそ私のおごりにさせてよ」
ようやく昼食のことだと気づいた。スマホを見ると、時間は一時半を回っていた。
「どうしてそんなにおごりにこだわるんです?」
僕は困惑しながら彼女に訊いた。
「意地」
笑顔の中にも少しだけ太い眉を寄せ、むきになった表情を見せる彼女をついつい可愛いと思ってしまう。僕は思わず苦笑いを浮かべ、僕の意地を見せた。
「じゃあこっちだって意地です。割り勘にしましょう」
「まあっ」
ちょっと驚いた顔をした彼女はすぐに吹き出して、
「今日の素晴らしい演奏の対価を支払いたいの」
「それでしたらおつりがいりますね。折半にするとちょうどいい」
「想ってほんと頑固」
「藍さんこそ」
藍の表情に僕は先ほどまでの苦痛をすっかり忘れ去った。いつの間にか僕たちは和やかに語らいながら、ここから歩いて五、六分の居酒屋へ向かった。そこで僕たちは格安の海鮮丼を頼み、ついでに僕はイカ刺しを注文した。案の定彼女は海鮮丼にもイカ刺しにもいたく感激し、がつがつと平らげた。藍は清楚系に見えなくもない外見に似合わず衣服も言動も随分とがさつな気がする。が、不思議にもそこに可愛げがあるような気もする。子供のように無心になって丼に喰らい付く彼女を、心を和ませながら眺めていた。
「あたしがおごるって言ったのにはほかにも理由があってね」
「へえ、どんな」
「じゃーん、無事お仕事が見つかりましたー」
彼女はポケットからライターを差し出す。僕は驚いて目を丸くした。
「ここに来たばかりだって言うのにもう? どんな仕事を?」
「ふふふ、求職に行ったお店が昼はカフェ、夜はバーをやっていて、そこに使われていないピアノがあったんだ。それで私が演奏してあげたら、そこの奥さんがすごく気に入ってくれて。あまり出せないけど弾いてくれないかってね」
「僕にはできない芸当だ」
得意満面な彼女に対し、ろくな仕事にありつけない僕自身が情けなく思えた。
「まあ、夜はジャズの方がいいって言われたんだけれど、私BlueNoteもあまり聴いてはいないし、少しずつ覚えながらかな」
BlueNoteなんて僕は一枚も聴いたことがない。
「まあこれだけじゃ生活できないし、まだ仕事探さないとなんだけどね。あとアパート。あたしここすっかり気に入っちゃった。静かで落ち着いた感じがとてもいいし。しばらくいようかな」
と、ほほ笑みながら肩をすくめる彼女がうらやましかった。僕も音楽で収入を得られれば。そう思った瞬間頭にびりっと電気が走る。そうだ、僕はもう音楽を捨てたんだ。このみすぼらしい生活こそが今の僕にはふさわしい。
僕はそんな胸の内を隠し、思ってもいない言葉で彼女を祝福する。
「いずれにしたってよかったじゃないですか。就職おめでとうございます」
「ありがと。じゃああたしのおごりでいいでしょ」
むしろこちらがお祝いにごちそうする流れのような気もしたが、正直もうどうでもよくなったので、僕は「どうぞ」と一言だけ返した。
「やった」
藍は子供のようにはしゃぐ。
「こんなことだったらもっと高いお店に案内するべきでしたよ」
「またそういうこと言って」
少し恨めしそうな顔を見せた彼女は、さっきからずっと上機嫌だ。
「想は今日これからどうするの」
食事も終わり一息つくと彼女が訊いてきた。
「今日はすることもないのでいったんうちに帰って…… 夜には一杯ひっかけに行くつもりです」
「お金ないのに?」
僕はうなるしかなかった。
「そういうあなたはどうなんですか。これからそのカフェだかバーだかの仕事?」
「そうね、ちょっと顔を出して、やれそうだったら何曲か弾いてみようと思う。今から楽しみ」
音楽を捨て酒を飲む以外にやれることがない僕と、曲がりなりにも音楽で収入を得る彼女。はっきりと明暗の別れた僕たちの間には高くて厚い壁がそびえたっていた。これ以上一緒にいたら僕は惨めな気分になる一方だ。
僕は一口お茶をすすってから彼女に言う。
「じゃ、解散しましょう。お仕事の邪魔をしちゃ悪い」
「今日はいつにも増して気が利くのね。じゃ、これね」
彼女は素早く伝票を手にすると小走りに会計へ向かっていった。そのかっ達とした後ろ姿を見るにつけ僕の心には暗い雲が立ち込めるのであった。才能溢れる彼女に嫉妬した。悔しさのあまり叫び出したい。そうでなければ冨久屋で浴びるほど呑みたい。そんな気分になった。
呑みたいと思ってはいたものの、この日の酒は苦かった。藍の才能が、美しい旋律の記憶が僕の胸を悪くした。
一昨日とは打って変わって機嫌のよくない僕を気遣ってか、みな僕のことを遠巻きにして、話しかけてくるような人は誰もいない。それはそれで
お会計の時、ブラウンのハイネックラムウールロングニットの上にエプロンを着たすがちゃんが小さな声で「あまり飲み過ぎないで下さいね」と心配そうに声をかけてきた。僕はにやにやしながら少し呂律の回らない口で「何言ってんですか、僕はここの稼ぎに貢献してるんですよ。『ありがとうございます』って言うべきところですよここは。そうでしょう?」と叩きつける。
すがちゃんと目を合わせずそのまま店を出る。すがちゃんの「ありがとうございました」と言う小さな声が背後から聞こえた。
表に出るとひときわ寒さを増した夜気を浴びてブルっと震える。空からはちらりほらりと小さな雪の結晶が舞い降りてきていた。初雪だろう。道理で寒いわけだ。
空を見上げる。雲も見えぬ真っ黒い空が、まるで僕の心のうちに立ち込める暗雲のように見えた。
◆次回
2022年7月6日 21:00
第5話 すがちゃんのお買いもの
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