第9話 風になる

 僕と長さん以外誰もいない店内で、長さんが何やら火にかけて煮ているのがわかる。沈黙が流れていた。僕はその間ずっと音楽から逃げ出した自分について思いを馳せていた。卑怯者、意気地なし、腰抜け、弱虫な軟弱者。

 十分くらい経っただろうか、長さんは僕の目の前に大きめの皿をことりと置く。小さな土鍋だった。それと合わせてコップ酒も出す。


「これ……」


「味噌煮込みうどんです。温まります」


「こんなメニューあったんですか」


「裏メニューってやつです。ずいぶん凍えてらっしゃるようでしたので。さ、熱いうちに」


 長さんは相変わらずの無表情で僕にうどんを勧める。


「でもこれ、僕頼んでないです」


「サービスです。いつものお礼です」


「……却ってすいません」


 いつも安い肴ばかり頼んで財布が厳しいことを見透かされているようで僕は情けなくなった。


「じゃ、遠慮なく」


「どうぞ」


 僕が無言でうどんを食べる間、長さんも無言で串打ちをしていた。


 長い沈黙の後長さんがぼそりという。


「さっきは何かあったんですか。あんな時間に」


「いや、なんとなく」


「そうですか」


 また沈黙が流れる。僕はうどんの具のシイタケをコップ酒で流し込む。

 誰でもいい。むしろ何も知らない人に独り言を呟いたら僕も少しは楽になるのではないか、そんな気がした。重たい口を開く。


「もう嫌になってしまって、何もかもが」


「その若さで?」


「年は関係ないでしょう。むしろ若いうちに全部出し切っちゃったんで余計に辛いというか」


「なるほど」


 そう言いながら長さんは串打ちを続けている。


「努力が報われないってあるんですね。人一倍、いや二倍も三倍も努力した自信はあるんですけど」


「ご苦労されたんですね」


「評価されないことの怖さってわかります?」


「まあ、なんとなくは」


「僕は一歳の時から努力を強いられてきて小中高って…… だのに音大まで行って誰からも評価されなかった」


「誰からも、というのは言い過ぎでは? 先生だけじゃなく他の生徒からの評価だって評価だと思いますよ」


「ああ、いやそうではなくて。確かに学校内での評価は表現力がひどいことを除けばそこそこと言うか、テクニックについてだけを言えばむしろ高い方だったと自負してますが……」


「じゃ、どういった評価を?」


 長さんが空のコップにちろりでぬる燗を注ぐ。僕はそれを一気にあおった。


「まあぶっちゃけ言うとコンクールですよね」


 たんっ、と勢いをつけて空になったコップを置いた。これこそが僕の苦悩と挫折の最大の原因だった。


「コンクール」


「これがかすりもしない。小さなコンクールで奨励賞を獲ったのが一、二回」


「それじゃだめなんですか」


「だめですね。もっと大きなコンクールで勝ちたい。それだけの力を持ってる。……そう思ってたけど、力不足でした。僕はもう二十年も報われれない努力を続けてきたんです。空しいですよね」


 また長さんが燗酒をコップに注ぐ。注ぎながら口にする長さんの声色が少し変わったような気がした。


「そんなことはないでしょう」


「ありますよ」


 僕はやや捨て鉢に言った。


「ですからね、僕は音楽を捨てたんです」


 僕は軽く笑いながら言ったつもりだが、その笑顔は心底自分を軽蔑する笑顔だったかもしれない。


「捨てた? 音楽を?」


 長さんの声はちょっと意外そうな色を含んでいた。その声色は藍の時と少し似ていたかも知れない。

 すると突如怒りが湧き上がってきた。藍の言葉を思い出したからだ。


「それを、逃げただなんて……」


「誰かから、それはただの逃げだと言われたんですか」


「……あいつに僕の何がわかるっ」


 僕はうつむいて吐き捨てた。まるで藍が僕をあざ笑う声がしたような気がした。彼女のように溢れんばかりの才能に恵まれていれば、僕はこんなに苦しむことはなかった。藍が心底ねたましかった。


「でも音楽、お好きなんでしょう?」


「え…… いや、それは……」


 僕は面食らった。僕は好きなのか? 音楽を?


「好きなものをそう簡単に捨てられるもんですかね。逃げ出せますかね」


「……親からの強制だけでやってきた音楽です。好きなわけないじゃないですか」


「だからこそですよ。誰かからの強制なのに、一歳の時から今までやり通してこれたんです。好きでなかったらなかなかできることじゃありません」


「でも好きだと感じたことなんて一度もなかった」


「それはあまりにも身近過ぎて自分の気持ちに気付いてらっしゃらなかっただけなんじゃないですか」


「気づいてなかっただけ?」


「そうです。例えば単純な話ですが、弾けなかった曲が弾けるようになったり、演奏が上手くいった時は嬉しいものでしょう。そう言うことです。そんなふうに音楽はもともととてもシンプルなものなんじゃないですかね」


「……シンプル」


 僕は最近の駅ピアノでの演奏を思い出していた。巧く弾ければ嬉しい。弾けなければ悔しくて、もっと巧くなって嬉しくなりたい。藍と連弾した時のスリルと爽快感はほかにはないものだった。この前藍のバイオリンとモンティのチャルダッシュを弾き切った時の気持ちよさは格別だった。そう考えると今の僕は音大時代よりずっと素直に、シンプルにピアノを弾いていると気付いた。藍という天才に圧倒され、自己嫌悪と嫉妬に陥るばかりで僕は何か大事なものを見落としていたのではないか。むしろ藍のおかげで僕は音楽を新たな側面から見つめ直せているのか。

 では今の僕は音楽を捨てたと言いつつも捨てきれないまま、逃げようとしても逃げきれないまま、こうして宙に浮いた生活を続けていたということか。


「それに」


 長さんが空になった小鍋を下げながら言う。


「音大以前にコンクールで受賞したことだってあるんじゃないですか?」


「え、ええ。高一の時に一度」


 なぜまるで知っているかのように僕の過去について話すのだろう、長さんは。


「どんなコンクールで?」


「藤山コンクールの青少年の部金賞を」


「立派なもんじゃないですか」


「確かに藤山コンクールと言ったらすごいものですが」


 僕は不思議に思った。こんな小さな飲み屋の板さんがなぜクラシックのコンクールについて詳しいのか。もしかすると長さんはクラシックの趣味でも持っているのだろうか。


 少しの沈黙ののち長さんが言う。


「“piacereピアチェーレ”ってご存じですか」


 そう言いながら長さんがコップにちろりで燗酒を注いでくれた。僕は突然の話題転換に面食らった。僕はその言葉に音楽用語の「喜び」以外で心当たりがあった。


「もしかして音楽雑誌、の?」


「今はもう廃刊になりましたがね」


 驚いた。どうしてあんなマイナーで玄人好みの、しかももう廃刊になったクラシック音楽専門誌の話が長さんの口から出てきたのか僕には見当もつかなかった。僕は呆気にとられた顔で、無表情で見ようによっては不機嫌そうな長さんを見つめる。


「そこで、『新進気鋭のピアニスト、新風を巻き起こす――技巧と情熱の若き奏者』、という記事があったのはご存じですか」


 僕の頭の中に稲妻が走った。コップを持つ手がぶるっと震える。ご存じも何も、その記事の対象になったのは僕だ。長さんはなぜそれを。


入江いりえ奏輔そうすけ。その記事に掲載された高校生ピアニストの名前です。インタビュー記事もありました。インタビュアーは春井はるい智行ともゆき。彼は当時の入江さんに限りない可能性を見出していました」


「じゃ、もしかしてあなたがその、時の――」


「ええ、入江さん」


 僕は長さんが笑うのを初めて見た。苦笑いとも照れ笑いとも取れる複雑で重い静かな笑いだった。


「僕と長さんはもう五年も前に会って話していたってことですか……」


 僕はあまりの衝撃に目を剥いた。


「そういうことです」


「全然わからなかった…… 一体いつから……?」


「初めてお見えになった時に、もしかしたら、と言う気はしました。それとカウンターを叩くときの指のしぐさ。あれはピアニストならではのものです。ショパンの夜想曲がお好きなようですね、特に一番。あれは藤山コンクールの二次審査で弾かれた曲です」


 僕は驚きあきれてものも言えなかった。人目を忍んでここに流れ着いたつもりだったが、これほどまで僕を見知った人物が目の前にいたなどとは思いもよらなかった。

 だけど今になってなぜ長さん、いや春井さんは僕にそんなことを話したのか。僕は腑に落ちなかった。


「でもどうしてそんな話を?」


「もう嫌になったおっしゃっていたので」


「嫌になったから、と言ってどうして」


「あの頃の『奏』さん、いや入江さんは、あまりにもそうした嫌気とは無縁の、希望に満ちた未来ある青年に見えました。その頃を思い出していただければ、そう思ったまでです」


「あの頃と今の僕では状況が違い過ぎます。思い出してみても、あの頃の無邪気で無知で無謀で無力な自分が気恥ずかしくなるだけです」


「あれからまだ五年しか経っていないんですよ」


「あれからもう五年も経ってしまったんです」


 店内は沈黙で満たされる。今日は客はおろかすがちゃんまでいない。不思議な空間だった。

 串を打ち続ける長さんが沈黙を破って口を開く。


「――風になりたい」


「は?」


「覚えてませんか? 『僕は風になって音そのものになりたい』、とおっしゃっていたことを」


「実に青臭く幼い言葉だ」


 僕は少し赤面しながら吐き捨てる。あまりにも臭いセリフに僕はむずむずした。少し苦々しい顔さえしていただろう。


「そうですか。いい言葉だと思いますがね。音そのものになる。いいじゃないですか」


「どこがですか」


 僕は恥ずかしくてそっぽを向いた。


「でもその言葉や、それを言った時の自分を思い出してみるのもいいんじゃないかと思いましてね。私が思うに、やはり音楽が好きでないとなかなか言える言葉ではないと思いますよ。でも、差し出がましい口をききました。気分を悪くされたら申し訳ありません」


「いや、いいんです。もとはと言えば僕から始めた話ですから」


 それからまたしばらく沈黙が続いた。その時ふと僕の中に疑念が生まれた。今の長さんは、なぜ音楽を捨てたかのような仕事についているのか。長さんが僕の過去に踏み込んできたのだから、僕だってそれくらいのことは訊いてもいいだろうと思った。


「長さんは」


「はい」


「どうして今の仕事を? 音楽関係の仕事はもうなさらないんですか?」


「ええ」


「どうして」


「嫌になっちまったんです」


 その言葉に僕は少し腹が立った、人にはいさめるようなことを言っておきながら、自分は似たような理由で音楽から逃げ出すなんて虫が良すぎるんじゃないか。僕は少し怒った声になる。


「なんだ、それじゃ僕とおんなじじゃないですか」


「まったく面目ありません」


 長さんは煮込みの入った鍋を掻き回しながら無表情に続けた。


「音楽の、それもクラシックに関する仕事がしたいと雑誌の編集になったんですがね。これがなかなか世知辛いもんで。理屈の通らない上下関係、派閥争い、足の引っ張り合いといがみ合い、大衆迎合の記事作り、スポンサーの意向、売り上げのためなら大なり小なりの虚構もいとわぬ編集方針…… あそこには血の通った雑誌作りはかけらもなかった。何よりも真実も音楽への真摯な姿勢もなかった。あそこは偽りの喜びpiacereに満ちた虚構の城でした。あそこにいたらだめになる。そう思って逃げ出しました」


 長さんは自嘲に満ちた苦笑いを浮かべる。


「青臭くて幼かったんです」


 長さんは仕込みを続けながら相変わらずの無表情で一人話し続ける。


「それでも結局記者の仕事は十年、四十まで続けていました。意地みたいなもんです。そこで何の気なしに料理の道に進もうと思いましてね。思い立ったらその翌日には雑誌社を辞めました。想さんのインタビューをした時に、私にも何か思うところがあったのかも知れませんね。短い期間ですがいくつかの店で働きながら修行したりしました。フレンチから今でいう町中華まで色々です」


 小鉢にお通しを盛り付けている途中で長さんは手を止め僕の方を見る。


「そしたらね、気づいたんですよ」


「気づいた?」


「ええ、料理も音楽と同じだって」


「同じ?」


「音楽は耳を通り、心に届き心に響いて豊かにし、そして消えていく。料理も口から胃を通り、そして消化されて身になって消えていく。要は心の肥やしになるか身体を形作るかの違いなんですがね。それに音楽も聴けば消えてしまい、料理も食べればなくなってしまう。いずれにしたってほんのいっときの出会いっていうのは音楽も料理も同じなんだなあ、と。や、まあ今はCDやレコードだけじゃなくて、動画サイトやらなんやらがありますが。それでも大概のコンサートではそうはいきません」


「いっときの出会い……」


「ええ、格好をつければ『一期一会』とでも言えばいいんでしょうかね」


「音楽も料理も一期一会ということですか」


「まあ正直なところ、ここでは大したものはなかなか作れませんが、それでもお客様と料理との一瞬の出会いを大切にしたい、そう思って作ってはいるんですよ。気持ちだけは、ですがね」


 僕は言葉がなかった。かつて高校生、音大生だった頃の僕だけでなく、今ここにいる僕ですら音楽についてそこまで考えたことはなかった。考えていたことといったらどうすれば技巧を上げられるかや何をすれば聴衆や審査員に受けるか、とかそんなことばかりだった。今の長さんは音楽から離れてしまったが、僕よりはるかに音楽への深い理解を持っている。


 一方で風になりたい、音そのものになりたいと大言壮語を吐いた僕は、いつの間にかそんな夢や願いとは縁遠い世界に身を置いてしまっていたのだ。

 その時僕は藍のピアノ演奏を思い出していた。もしかすると彼女こそは風や音そのものなのかもしれない。そんな気がした。


「あら、いらっしゃい。想さん今日はずいぶん早いんですね」


 エプロンをしめながらカウンターに入ってきたすがちゃんはすぐ僕に気づいて嬉しそうな表情になる。営業スマイルじゃなくて本当に嬉しそうな顔をしているような気がして、この柔らかな笑顔を見ると僕は胸が暖かくなる。すがちゃんの笑いは決して人をあざ笑うものではない。たとえ僕が何者であろうとも。

 その時突然に藍の小生意気な笑顔が目に浮かんだ。その藍の笑顔に僕は胸が小さく痛くなった。そう、藍だってきっとそうだ。さっき元町で見た僕を気遣う藍の表情を思い出した。藍もまた僕を嘲笑したりはしないだろう。それにしても藍は最後に何を言いたかったのだろう。

 明日、藍はいつも通り駅ピアノにいるだろうか。あそこであの笑顔を見たい、演奏を聴きたい。僕はそう思った。そうしたら僕も少しは風に近づけるかもしれない、そんな気がした。


◆次回

2022年7月11日 21:00

第10話 巨匠

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