第46話~悪魔との契約~


 水族館での死闘が完結した日の夜。真央まお屋宮やみやはお昼寝商事のオフィスビルの会議室へと招かれていた。


「なんで私がこんな所で待たされているのよ!」


 真央は苛立ちを募らせながら、ブラインドの隙間から窓の外の夜景を眺めていた。


「まあ、そう言うなよ。なんだかんだ、お昼寝商事の連中には世話になっただろ」


「ふん。こんな連中居なくたって、私一人でベルフェゴールの娘ぐらい倒せたわよ」


「いや、他にも色々あっただろ。ハンドバックの件とか……」


 戦いにかまけてハンドバックを館内に忘れてしまった真央は、戦いが終わった後に再入場しようとしていた。しかし、戦闘で失った右手を再生した事により、再入場用のスタンプが消失しており、仕方なく鈴瀬すずせと屋宮が探しに戻っていた。


「見つかってよかったですよ。人除けの結界の中で失ったものは、現実世界との整合性を取る際に消失する事がほとんどですから。携帯とか身分証とか、失くすと手続きが面倒ですからね」


 会議室に残る唯一のお昼寝商事メンバーである鈴瀬が、落ち着いた様子で言う。以前なら真央に対して、敵意か恐れの感情しか持ち合わせていなかった彼女も、すっかり真央に慣れた様子だ。


「何よ、恩着せがましいのね。大体何でこの私が待たされているのか、説明しなさいよ!」


 真央が鈴瀬を指さして言う。しかし、鈴瀬は困ったように真央を宥める。


「悪いとは思っていますけど、ちょっと裏で色々とこちらの話を進めてる所でして……あ、コーヒーのおかわり如何ですか?」


「もう何杯目よ! 何企んでるのか知らないけど、あんまり待たせるようなら、ここでもうひと暴れしてもいいのよ?」


 脅迫とも取れる言葉にも鈴瀬は困ったような表情を浮かべる。しかし、同時に鈴瀬の携帯電話から通知音が流れ、画面を確認した後に表情を引き締めた。


「終わったみたいです。これから真央さんとの交渉に入らせてもらいますが、絶対に何があっても激高して暴力に訴えかけるようなことはしないでください」


「暴力って……あのねぇ。あんた達なんか力でねじ伏せるのは簡単なのよ?」


「はい、わかっています。でも、そんな事をすれば屋宮さんにふられますよ?」


「……俺をだしに使わないでもらえます?」


 そんな会話をしていると、会議室の扉が開いて、疲れた様子の芦屋あしや土御門つちみかどが入って来た。


「おい、鈴瀬。おまえ、胃腸薬持ってたよな?」


 強靭なフィジカルと悪態が人の形を取ったようなあの芦屋の疲弊しきった姿に、屋宮は驚く。すぐに軽口を挟むはずの土御門に至っては、すぐれない顔色で無言のままだ。


「デスクに置いているので手元には無いですけど、後で差し上げます。相当堪えてますね」


「当たり前だ。このクソ悪魔にサインさせる為に、十年は寿命を縮めたぞ」


 そう言う芦屋の後ろから入って来たのは、驚いた事に路手理子みちてりこだった。鈴瀬の剣撃で眠らさせられていた後、お昼寝商事によって身柄を確保されたとは聞いていたが、今は余裕の表情で上機嫌の様子だった。


「私は皆の事を誤解していたね。ここまで人間に迷惑かけた私に、こんな譲歩してもらえるなんて、思ってなかったよ。やっぱり人間は対話と歩み寄りと思いやりが大切なんだね」


 お前は人間じゃなくて悪魔だろ。そんなツッコミが寸前まで出かかったが、押さえて別の質問を投げかける。


「どういう事だ? ロデリーコ先輩は身柄を押さえったって……」


「理子さんと我々は和解して、契約悪魔になって頂いたんです。魔術契約で力は制限させていただきますし、悪さをすればペナルティが発動する魔法を掛けさせていただいていますが、もう理子さんは我々の制限内であれば自由です」


 疲れた様子で口を噤ぐ男性陣に変わり、鈴瀬が事情を説明する。その表情には、どこか緊張が見て取れた。


「そんなに身構えなくていいよ。もう私たちは対等な仲間なのだから、仲良くしてほしいね。私は人間の世界で楽しく生きていきたいだけなのだから、もう争う必要も無いし、安心してね」


 芦屋や土御門の様子からは、とても対等な条件とは思えず、よほどお昼寝商事が譲歩した事が伺える。彼らの気苦労は相当なものだろう。


「さて、それでは真央さんの話に移りましょう」


 鈴瀬の言葉に真央は椅子に腰かけ、頬杖をついて理子を睨む。


「……私を散々待たせたのは、その雑魚を仲間にしてから交渉に入りたかったからなのね? 随分と姑息な事をするじゃない」


「力の弱い人間なので、姑息な手を使わないと悪魔とまともな交渉できないんですよ」


 真央の嫌味を流しながら、鈴瀬は一枚の羊皮紙と思われる紙を取り出す。屋宮は横からそれを覗き込むが、見た事のない文字が連なっていた。


「真央さんも我々と共に人間を守る為、手を取り合って戦って頂きたいと考えてます。もちろん強制はできませんし、強制したところで無意味でしょう。それに、魔界に帰す約束をしていましたから、希望されるならそちらの約束を遂行する準備もあります」


 鈴瀬はいつになく真面目な物腰でつらつらと言葉を並べる。こうしてみると、ビジネススーツも相まって、やりての営業マンのような印象を受けた。


 しかし、屋宮は気が気では無かった。この場で真央がどのような決断を下すのか。それによって、屋宮と真央の今後が大きく変わって来る。


「こちらが魔術契約書です。ご自身の血でサインを書いていただければ、契約成立です。拒否して魔界に帰るつもりなら、破り捨てて頂いて構いません。今この場で決断していただけると、我々としては話が早くて助かります」


 真央は魔術契約書とよばれた不気味な羊皮紙を手元に寄せる。指先で持ち上げて、挑発するように鈴瀬の前でひらひらと宙を泳がせて見せる。


「そんな玩具みたいなもので私の力を縛れるとでも思っているのかしら。随分舐められたものね」


「なあ、真央……」


 屋宮が真央に声をかけると、真央はそれを制するように、決断を下した。

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