第9話~回復魔法は闇属性~


「はぁ。久々に全力で走ったわ」


 部屋に入るなり屋宮やみやにもたれ掛かる真央まお。香水と汗が混じった複雑な香りと、体温を感じるスキンシップに、思わずドキリと胸を高鳴らせる。


「……シャワーでも浴びるか?」


「化粧落ちるから嫌。……今変な事考えてたでしょ」


「い、いや、べつに……」


「まったくもう。男ってホントに、付き合った途端に調子乗るんだから」


「まるで前にも嫌な目に遭ったような事を言うんだな」


「なに、嫉妬してくれるの? あっはは、やっぱ屋宮君って可愛いよね。安心して頂戴。友達の恋愛事情を見ていて思った事だから。屋宮君は私の初めての彼氏さんだよ~」


 真央は悪戯っぽく笑いつつ、上目遣いで屋宮のほっぺをつんつんと突く。小馬鹿にされているのが分かっていながらも、事件続きで辟易していた屋宮の心は、どこか癒されるのを感じる。


「やっぱ俺ってマゾなのかな」


「へっ? またSMの話? ごめんね、私はSじゃないから、屋宮君の底知れない欲望を満たしてあげる事はできないわ」


「前言撤回。俺はマゾじゃない。ちなみに真央は間違いなくSだぞ」


 屋宮も真央につられて笑みを溢す。けれども、意気地ない屋宮は重要な話を切り出せずにいた。


 真央は明らかにあの黒いスーツの男たちの正体を知っている。そうでなければ、わざわざ危険を冒してベランダから逃げ出すような真似をしないはずだ。


 あのお昼寝商事とかいうふざけた名前の会社と、真央は一体どういう繋がりなのだろう。


 この疑問を真央に尋ねたら一体どうなるのだろうか。まさかそれが切っ掛けで別れを切り出されたりはしないだろうか。


 別に恋人だからと言って、秘密の一つや二つぐらい有ってもいいだろう。だが、この件に関しては、明らかに屋宮が被害を被っている。


 聞くべきか聞かぬべきか。ハムレット程にひっ迫した二択ではないが、屋宮にはその答えが出せずにいた。


「なによ、難しそうな顔してさ」


「いいや、何でもない。それより……」


 屋宮は部屋を見渡す。あの横暴な連中が踏み荒らしたせいで、フローリングの床と敷かれた絨毯に土汚れが付いている。


「はぁ。掃除するか……」


「あっははは、手伝ってあげる」


 部屋の惨状を見て、なぜか真央は嬉しそうだ。もはや昨日から度重なるトラブルの連続で、もう怒る気力も失せている。


 黙々と床を拭き、絨毯の汚れをベランダから外に叩く。


「うげぇ、なかなか落ちないな」


「諦めて新しいの買えば?」


 真央は簡単に言うが、こちとら一人暮らしを始めてまだ半年も経っていない。まだ新品同然の絨毯をさっそく買い替えるというのは、そう易々と決断できるものではない。


「金も無いし、何とかこれを綺麗にする方法を考えるさ」


「あら、倹約家なのね。……私が新しいの買ってあげよっか?」


「はあ? お前、バイトとかしてたっけ?」


「さっきは真央って呼んでくれたのに、またお前に戻った。これぐらいのカーペットなら数万ぐらいでしょ? その程度、バイトしてなくても出せるわよ」


「お前だって、俺の事を苗字で呼んでいるじゃないか」


 屋宮は真央の金銭感覚に軽いめまいを覚える。普通は学生の一人部屋の絨毯なら、量販店で五千円前後が相場だろう。それを数万と見積もる世間知らず、数万をその程度と言い捨てる感覚。前々から薄々感づいてはいたが、真央は相当よい家のお嬢様なのだろう。


 だからといって、彼女に絨毯を買って貰おうとは思わない。屋宮は頭の中で算盤を弾き、今月の予算にまだ余裕があることを確かめる。


「……別に私の事はいいじゃない。それとも、屋宮君も下の名前で呼んで欲しいの? つるぎ君とか……あ、けんちゃんとか呼びやすくていいかも」


「……やっぱ今までのままでいい」


「え~、なに照れてんのよ。けーんちゃん」


 妙なあだ名を思いつき真央は上機嫌な様子だが、呼びかけられる屋宮は恥ずかしさのあまり赤面してしまう。


「す、好きに呼ぶのは構わないけど、けんちゃんは止めてくれよ」


「ちゃんと私の事を真央って呼んでくれたら、考えてあげる。それより、どうする? もう今更水族館って訳にもいかないし、カーペット新調しに行こうよ」


 時計を見ると、既に十四時を過ぎていた。確かに、今から遠出して水族館というには些か遅い時間だ。


 時間を意識した途端、屋宮の腹がぐぅと音を立てる。思えば昨日は夕食を食べ損ねていたし、朝も何も口に入れていない。水族館の埋め合わせには少々釣り合わないかもしれないが、今からショッピングデートというのも悪くないかもしれない。


「ちょっと遅くなっちまったけど、お昼も食べたいし、横岸駅近くの百貨店にでも行くか。あそこなら家具の量販店も入ってたはずだし、飲食店もいろいろあっただろ」


「お値段以上ね」


 緑の看板の家具屋を想像しながら屋宮が立ち上がろうとすると、「うっ!」と短い呻きを漏らし、右の足首を押さえる。


「どうしたの?」


「いやあ、昨日捻って……」


 緊張からか今まで気づかなかったが、昨日捻った足首が赤く腫れあがり熱を帯びている。階段を昇るのに苦労した時点で嫌な予感はしていたが、これは思っていた以上に重傷だ。


「悪いけど、今日は病院に行かせてくれないか……」


「えー、そんなの湿布貼ったら直るよ。救急箱どこに有るの?」


「そんなんですぐに動けるほど良くなるわけ無いだろ。でも湿布は欲しい。そこの戸棚に入ってるから、ちょっと取ってくれ」


「ん、これね。ほら、貼ってあげるから足を出しなさい」


 美少女の彼女に介抱して貰える機会が来るなんて、なんだか夢みたいだと思いながら、屋宮は足を向ける。真央はその足に、丁寧に湿布を貼る。


 一瞬、湿布を貼る真央の手から黒いオーラのようなものが見えた気がした。何かの見間違いかと思い屋宮は目を擦るが、再び真央の手を見た時には、いつもの精巧な人形のように綺麗な指先があるだけだった。


「なによ。まじまじ見て」


「……いや、真央って綺麗な手をしてるよな」


 真央は赤面して視線を逸らす。


「バカ。それより、足の痛みは?」


「そんな湿布貼ったぐらいで……あれ? 動かしても痛くない」


 屋宮は右の足首をぐるぐる回してみるが痛くない。右足に重心を向けても、軽くジャンプしてみても何ともない。


「そう。歩けそうなら、買い物ぐらい大丈夫でしょ?」


「ああ、まあそうだけど」


「じゃあ決まり。さっそく行きましょう!」


 一体これはどういう事だろう。例え軽い捻挫だったとしても、湿布にそこまでの即効性があるとはとても思えない。どこか釈然としないものの、まあこれで真央と出かける事が出来るならと、首を傾げながら屋宮は出かけ支度を始めた。

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