六日目:「筆」『筆の怪獣』

 俺の「お箸を持つ方」は左だ。

 先生は俺に、「筆は右手で持ちなさい」と言った。

 だから俺は筆を右手で持った。

 そうしたら、読めない字が出来上がった。

 

 読めない字は皆の字と一緒に教室に飾られた。

 周囲の字から浮いていた。

 まるで書いた俺自身のようだった。

 何をしても浮いてしまう、俺は自分が嫌いだった。

 大人になったらきっと皆と同じになれるはず、そう思っていた。

 しかしそれは間違いだった。

 

 大人になっても俺は浮いていた。どこに行っても浮いていた。

 利き手、ふるまい、精神年齢に態度に知識。

 それら全てがマイナスであり、どこにも馴染めない。

 自分一人だけ閉鎖空間にいるようだった。

 

 あの怪獣がやってきた日も、俺は浮いていた。

 そのころにはもう外には出られなくなっていたから、家でただ眠る。

 隣人全てがいなくなっても、俺は家で眠っていた。

 それは今も同じだ。

 不思議とお腹は空かず、何も食べなくても生きられた。

 きっと俺はあの日に死んでいて、ここにいる俺は残滓のようなものなのだろう。

 残滓になっても起き上がる気力がなく、ずっと眠っている。

 俺は眠っている間に消えるのだろう。

 もう死んでいて残滓でしかないのなら、生きても死んでも夢の中でも消えても同じことだ。

 生きること。起きること。浮いている人生はもううんざりだった。

 しかしもうこの世界には俺一人しかいないのだとすれば、どうだろうか。

 他人がいなければ比べなくて良い。

 比べなければ浮かなくて済む。

 案外これは「神の祝福」なのかもしれなかった。

 神を信じていない俺が神の祝福だ何だと言うのは道理に合わないとは思うが、この国の人間はおおかたそうだと思う。

 断言はできないが。

 怪獣は筆の形をしていた。

 

 永遠に外に出なければ、永遠に一人でいられる。

 そのことに気付いたのは、世界がすっかり終わってからだった。

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