第2話 憧れの始まり

 新宿駅の東口改札から出た私は、西武新宿線に乗り換えるため歌舞伎町方面に歩き始めた。左側に見えるビルの大きな温度計には「マイナス4度」と大きく表示されていた。東京とはいえ、冬の夜は田舎と同じように冷えるということを、社会人になって学んだ。

 特に、二時間の残業を終えた後の冬の寒さは、虫歯にシャーベットを塗りこまれるような痛々しさを私の心に沁みこませる。


 ——ああ、さみぃ。早く家に帰って温まろー。


 背中を丸めながら歩いて、人並みに流され、巨大なクロスビジョンの前の交差点で堰き止められる。

 クロスビジョンに映る映像も、有象無象に流されて歩く私も、昨日と同じ。

 まるでデジャブだ。

 毎日同じことの繰り返しで嫌になる。

 寒いし、疲れたし、何のために生きているのだろう。

 今日も家に帰ったら、ご飯を食べてダラダラし、寝て起きたら会社に行き、また帰ったらダラダラするのの繰り返し。何かに流されながら生きている間に、一日は無駄に終わっていく。

 多分明日も、同じように一日が浪費されていく気がする。

 死ぬまで続くのか、この生活は。

 こんな生活から抜け出したくて何かを変えたいと思うけど、どうしたらいいかも分からない。新しく何かを始める気力も勇気も無い。あるのは、将来に対する漠然とした不安だけだ。


 ——はぁ。なんだかなぁ。


 憂さ晴らしのように空に吐き出した白いため息を見て、現実に引き戻される。

 すると、私の横でギターの音が掻き鳴らされていることに気付いた。

 新宿駅前東口の広々としたスペースでは、今日も路上ライブが行われているのだ。一応その場所は路上ライブ禁止なのだが、そんなルールなどお構いなしに夢見るアーティストたちが集まってくる。

 今日は男子三人組のロックバンドが演奏して、その周りを女性ファンが囲っている。

 しかし私には、このバンドにそこまで熱心に聴くほどの魅力的があるのか分からない。私は音楽に無頓着なのだ。彼らが鳴らしているギターの音は、私の耳をただ通り抜けていく。


 ——なんか、何も楽しくないな。


 耳からも目からも否応なしに感じる賑わしさに胸焼けしそうになりながら、信号が青になったので歩き出そうとする。


 ふと、そのロックバンドの隣に一人、可愛い女の子を見つけた。笑顔でマイクを握り、軽くステップを踏みながら歌っている。

 どうやら彼女は、この路上では珍しく、アイドルとして活動しているらしい。ロックバンドの女性ファン連中に押しのけられそうになりながらも自分のテリトリーを固めて、そこから動こうとしない。道行く人々の騒音に歌声をかき消されても笑顔を崩さない。


 ——あんな健気に……。よくやるなぁ。


 さらに驚くべきはその服装だ。上はセーラー服風のノースリーブシャツ、下もそれに合わせた紺色の超ミニスカートで、今は夏なのかと錯覚してしまいそうだ。


 ——こんな寒いのに生足なんて。若いなぁ。


 少し達観しながらも、気付いたら私の足は彼女の方へ向いて、人の波に逆行しながら歩を進めていた。

 そしてとうとう、彼女の目の前に来てしまった。

 私の他には、スーツを着たサラリーマン風の男性が一人だけ立っている。

 私はひとまずその男性の隣に、人波に流されてここに辿り着いたと言わんばかりに少し辺りを見渡しながら、自然な感じを装って立つことにした。


「あ!」彼女が叫ぶ。

 彼女はずっとその男性を見ながら歌っていたが、瞳に私を捉えると、歌の途中にもかかわらず私の目の前まで近寄ってきた。

「見に来てくれてありがとう! 私、帆夏っていうの! お名前を教えてー!」

 彼女は私にマイクを向ける。純粋無垢な彼女の笑顔は、断るという選択肢を私に与えてくれない。

 バックの音楽はずっとお構いなしに流れていて、私を急かす。

「……私は、美里(みさと)、です」

 マイクに乗った私の名前は、新宿の人々の海に投げ入れられた。

「ありがとう! 美里ちゃんは記念すべき私のファン第一号だ! よーし、私張り切っちゃうぞー!」

 何がなんだか分からないが、凡庸な私の存在が認められた気がして、少し嬉しくなった。


 私にだけ見えるようウインクした彼女は、オレンジ色の髪をはためかせながら最初の場所に舞い戻った。それからずっと、私を見ながら歌ってくれた。

 私もそんな彼女の視線を受け止めるように、彼女の一挙手一投足まで逃さず見ていた。

 隣のロックバンドの音はもう、私の耳には入って来ない。

 目の前の彼女の歌声だけを、私の耳は拾っていた。


 やがて曲が終わり、「ありがとうございました!」と挨拶をした彼女は深々と頭を下げた。

 結局私は、氷点下なのに最後の曲が終わるまで居てしまった。


 ——どうしよう。めっちゃ良かった。


 私には歌の上手いか下手かはよく分からないのだが、帆夏ちゃんの生き生きとした表情や可愛げのあるダンス、コミュニケーションなどのサービスも込みで、彼女の歌が好きだと思った。

 それに何より、氷点下の路上で誰よりも明るく舞うたくましい姿は、何者にもなれず普通のOLをしている私と違って、とても輝いていた。


 歌い終わった帆夏ちゃんは、また私のところに来た。

「美里ちゃんが私をずっと見てくれてたから、最後まで頑張れたよー! イエーイ!」

 ハイタッチのために掲げられた手に、私のかじかんだ手を合わせる。

 帆夏ちゃんの手は、私の手よりもっと冷たく、固かった。

 まるで人の手ではないみたい。

 不思議な手の感触に動揺する私を見て、彼女は言った。

「驚いた? 私、AIなんだー!」

「えーあい? えーあいって、あの、人工知能のAI?」

「そうそう! すごいでしょ?」

「全然分からなかった」

「へっへっへー! じゃあ特別に、私の秘密を一つ教えてあげよう!」

 彼女は得意げに言う。「美里ちゃんの隣にずっといる、スーツ姿の若い彼! 彼はヒロシ! 実は、私のマネージャーなんだ!」

 紹介されたヒロシさんは、私に会釈をして「どうも」と言った。

「ヒロシはあんまり喋らないけど、音楽とかアイドルのことを私にちゃんと学習させてくれた、すごい人なんだよ!」

 ヒロシさんは一本調子な話し方で、

「今日はありがとうございました。帆夏のメンテナンスがあるので、これで失礼します。明日もライブをするので、また来てください」

 と言った。帆夏ちゃんとは対照的に、無表情で愛想が無い。

 それに対して帆夏ちゃんがむくれる。

「もう、ヒロシ! あと少しだけいいでしょ? それに、明日も来てくださいとか、そういうのは私が言うセリフだからあ!」

「いいから、帰るぞ。お前は今日が初ライブなんだ。明日もあるから、今日はもう休め」

 ヒロシさんは帆夏ちゃんの手を引っ張ると、音源を流していたアンプを専用のカートに乗せ、新宿駅西口の方向へ歩き出した。私が帰る西武新宿駅とは逆の方向だ。

「美里ちゃん、明日も来てね!」

 私の方を振り向きながら、帆夏ちゃんは手を振る。私も手を振り返す。


 ——言われなくても、明日も行くよ。


 人波に飲まれて、やがて帆夏ちゃんとヒロシさんの姿は見えなくなった。

 帆夏ちゃんは、別れる最後の最後まで私のことを見てくれていた。


 ——これが、アイドルか。


 私は物心ついたときから、アイドルを避けるように生きてきた。

 小学校低学年くらいまでは、何の気なしに「将来の夢はアイドルだ!」と言っていたらしい。しかし、大きくなるにつれて、そんなことを言うのが恥ずかしくなったのだ。

 別に、誰かにその夢を否定されたわけではない。しかし、徐々に周りの子の掲げる夢が現実的なものになっていくのを肌で感じていて、それに合わせるようになった。そして小学校高学年くらいから、私はアイドルになりたいなんて言わなくなった。

 それからはむしろ、そういうエンタメ的なものにハマる人は惨めだと思うようになった。ましてや「オタク」と言われるような、何かに情熱を燃やす人のことを、気持ち悪いとさえと思うようになった。SNSなんかでペンライトを振り回すオタクたちの動画が回ってきたときは、軽蔑しながら見ていた。


 大人になってまで何かに夢中になるなんて、惨めな現実逃避でしかない——

 そう思って、自分の感性に蓋をするように目立たず平坦な学生時代を歩んできた。おかげで成績はそこそこ優秀で、先生に咎められるような悪いことも一切しない優等生になれた。周りの大人はそんな私を褒めてくれて、私はこれが正しい生き方なんだと思っていた。


 しかし、就職活動の時期くらいから、そうやって作ってきた自分の普通さに焦りを感じるようになった。就職活動のとき、自分の個性や将来の目標について散々聞かれたからだ。それに、社会人になってから出会った人々は、みんな自分の好きなものや個性的な部分があって、変わったエピソードの一つや二つは常備していた。

 こんな現実主義的な世の中で、普通に生きることを押し付けられて育ってきたはずの人たちは、どのタイミングで自分の好きなものとか個性を手に入れたんだろう。私はこのまま、刺激の無い普通の人生をなんとなく生きていくだけなのだろうか。

 オセロで自分の色の駒が全てひっくり返されるような、ショッキングな感覚だった。


 そんな矢先に、帆夏ちゃんに出会った。

 帆夏ちゃんが人ではなくAIだということは、あまり気にならなかった。むしろ、彼女の特異性に強い憧れを抱いた。ずっと見守りたいと思った。

 それに私が偶然得た「帆夏ちゃんのファン第一号」という肩書きは、何者にもなれないと諦めていた私に、アイデンティティを与えてくれた。

 家に帰る時間がいつもより遅くなってしまったが、そんなことはどうでもよかった。


 ——明日も、帆夏ちゃんに会うために頑張ろう。


 帆夏ちゃんがさっきまでいた場所を目に焼き付けてから、いつもより軽やかな足取りで西武新宿駅まで歩いた。


 次の日から、仕事帰りに帆夏ちゃんのライブに寄るのが日課になった。

 帆夏ちゃんは私の顔を覚えてくれて、毎日私が来るとニコっと微笑み、手を振ってくれた。

 ちなみにヒロシさんは、初日よりも離れたところで帆夏ちゃんの様子を見るようになった。ヒロシさんがやることと言えば、帆夏ちゃんが帰るときに手を貸すことくらいだった。おそらく帆夏ちゃんの性能が安定したから、最初のときほど注意深く見る必要がなくなったのだろうと推測した。


 私はというと、いつの間にか通勤カバンにペンライトを忍ばせて会社に行くようになり、帆夏ちゃんのライブ時には必ずペンライトを振るようになった。もちろん色は、帆夏ちゃんの髪色に合わせたオレンジだ。初めてペンライトを振った日、帆夏ちゃんがとても嬉しそうな顔をしていたことが忘れられない。


 そして日が経つにつれて、私の横で一緒に帆夏ちゃんのライブを見る人が増えていった。帆夏ちゃんはその人たちのことも見ながらライブをするようになり、私と目が合う時間は減ってしまった。それでも私は、他の人たちを追い出すような「嫌な古参」にならない振る舞いを意識して行動したし、そもそも帆夏ちゃんにファンが増えることは私も嬉しかった。他の人たちが帆夏ちゃんに見惚れるのを、私も同じ気持ちで見ていた。

 いつの間にか、私以外にも常連のファンが付いていて、ファン同士で話したりする機会も増えた。

 まだたった十数人のファン連盟だが、「帆夏ちゃんに武道館でライブをしてほしい」という共通の夢を持つようになった。そのために自分たちが屋台骨になって、これからの帆夏ちゃんを支えていこうという団結力が生まれていた。

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