29.無理
10月21日 金曜日 午後6時30分
僕は商業ビルに入っている書店のレジの前に立ち、船を漕いでいる不真面目なバイトを起こそうと、そいつの目の前で指を鳴らす。
「……ん。うぇあっ! 申し訳ございませんでした! ……って侍?!」
「油断しすぎだろ。万引きされるぞ」
僕は立ったまま居眠りしかけていた店員――琉衣の慌てた顔を見て、思わず苦笑いを浮かべてしまう。書店でバイト中の琉衣は大きな黒ぶち眼鏡をかけていた。普段の快活な雰囲気は息をひそめ『文学少女』という言葉が似合う見た目になっている。
「珍しいね。侍が本屋さん来るの」
「琉衣と二人で話したいことがあって。メッセージ、既読スルーしたろ」
「あっ……ごめん、返信忘れてた」
彼女の反応が意外だった。いつもだったら「そんなに私と話したいの?! やっぱり私にしときなよ!」とでも言ってくるはずなのに。既読スルーの件もそうだが、今日の琉衣は心ここにあらずといった様子だ。
「バイト、あとちょっとで上がりだろ? 終わったら時間貰えるか?」
「ん、いいよー外で待ってて」
「ありがとう。あと、これも」
「え?」
琉衣の目の前に文庫本を一冊置く。赤い背景に金髪の美少女が表紙に描かれているSF小説だ。ずっと読みたかったが、図書館には入らず口惜しい思いをしていた。
「ど、どうしたの?!」
「どうしたのって……買うんだけど?」
「え、あ、ごめんそうだよね。お買い上げありがとうございます」
琉衣はたどたどしい手つきで本のバーコードを読み取る。
「そんな驚く?」
「驚くよ。いつも図書館か、買っても中古100円のやつだったじゃん。新品買うとか、どうしたの?」
琉衣の疑問はもっともだ。彼女の言う通り、今までの僕は自分の趣味でさえ金を使うのを渋っていた。今回欲しい本が新品で買えたのは、ひとえに葉のおかげだ。葉と昼と夜の食事をとることで、僕の食費はここ1ヶ月分、かなりの金額が浮いた。その分貯めていたお金でこの本を買っている。AIAは金銭面で苦労しているのに、自分はこうやって贅沢をしようとしていると考えると、複雑な心境になる。だけど明日の難しい作戦を前に、何か買い物でもしてストレスを解消したいという欲を僕は抑えられなかったし、何かで琉衣と話す口実を作りたかったのだ。
「ほら、葉がお弁当作ってくれるじゃん。食費が浮いたからだよ」
買う理由はともかく『買える』理由は口に出せる。そう僕が告げた後の琉衣は、
「そっか」
普段の快活さもどこへやら、ブックカバーをかけるかも聞かず会計を進めた。
◆
10月21日 金曜日 午後7時15分
「で、話って何?」
「えーっと……どういえばいいんだろう」
仕事終わりの琉衣から、彼女の帰宅ルートを歩きながら投げかけられた質問に対し、情けないことに僕はまだ伝える言葉を決められていなかった。
『明日、世界を滅ぼそうとする魚人間を世界中に暴露する作戦があります』
『逆上した魚人間たちが自爆テロをするかもしれません』
『なので明日の夜は極力家から出ないでください』
これを正直に伝えて、信じてもらえるわけがない。そもそも僕は『魚人間なんて馬鹿げてる』と先月彼女に言ってしまっている。素直に話したところで、冗談か小説のネタ提供くらいにしか思えないだろう。怪訝な顔を向ける葉への説明に困る僕の視界に、救いの糸が見えた。
「話の前にさ、お腹空いてない?」
「えっ、あーうん……多少は」
僕の視界に入ったのはクレープを売るキッチンカーだ。
「前にクレープ奢ってくれたろ。今度は僕が奢るよ」
「え、でも、悪いよ」
「いいから、いいから」
僕は半ば強引に琉衣を引き連れてキッチンカーの前まで向かう。友人を救うための口実を考えるための時間稼ぎができるのなら、クレープくらいの出費は、今の僕には痛くもかゆくもなかった。
「どれにする? せっかくなら映えるやつがいいよね」
「うー……侍に任せる」
琉衣は気乗りしていないのか、立て看板のメニューにろくに目を向けない。いつもは人一倍食う癖に、本当に今日はどうしたんだろうかと、心配になる。
「そう? じゃあ適当に選ぶぞ」
僕はメニューの中から琉衣に奢る一番豪華そうなのと、自分用の二番目に豪華なものを店員に伝える。トッピングが豪華だからか、時間がかかると言われるが快諾した。時間が稼げれば稼げるだけ良いのだから。
「ちょっとかかるって」
「うん……」
「あれー? 侍じゃん!」
弾まない僕と琉衣の会話を押し流すように、アホ丸出しの声が聞こえてきた。僕が声の方へ視線を向けると、みかりの友人たち数名が近づいてくるのが見えた。
「おっす、みんな」
「おう、なに侍。デート? ってかその子メッセージの子?」
以前僕の携帯をのぞき見していたツーブロックで眼鏡の男子が、僕の後ろに隠れるように立っている琉衣を覗き込んで、下衆な笑顔を浮かべている。
「彼女じゃないっつったよね、え、今声かけていい?」
「おめー人の女にちょっかいかけんなや。彼女に言いつけっぞ」
僕は彼らのように乱暴な言葉を吐きながら、眼鏡男子の肩へ軽くパンチする。食らった相手もギャハギャハ笑いながら、僕へ同じようにパンチし返す。決して本気になって喧嘩しているわけではない。多様なコミュニケーションの形の一つなのだ。互いに軽い暴力を振るっても許しあえるという、幼稚かつ男性的な関係性を確かめ合っているだけに過ぎない。お互い満足したら最後に「うぇーい」と言い合って体をぶつけて、はい、終わりだ。
「んじゃ、またな」
「おう、またなチャラ男ども」
「チャラくねーし!」
僕がみかりの友人たちに手を上げて見送った時、少し離れたところで琉衣は両手にクレープを持って待っていた。僕の代わりに受け取っていてくれたのだろう。申し訳ないことをしてしまった。
「ごめん、お待たせ」
急いで駆け寄った僕を見つめる琉衣の瞳は、酷く澱んで見えた。
「……侍、私いつから侍の女になったの?」
「え? ああ、あれね」
まったく、面倒な時に来たもんだと、みかりの友人たちを呪う。
「あいつら
「冗談、なんだ」
「うん。ほら、いつも言ってるじゃん『私にしときなよ』って」
「……」
琉衣が無言で二つのクレープを差し出してくる。写真を取るためにスマホを取り出すのだろう。僕はそれを受け取るが、
「ごめん、無理。帰る」
僕が受け取るや否や、琉衣は僕に背を向け早足で歩き始めた。
無理
それが女子の中での最上級の否定の言葉であることくらい、僕でも知っている。僕はAIAの面々を除けば唯一と言いえる友人の機嫌を損ねたのだ。だが、理由が分からない。僕は急いで追いかけ横に並ぶ。なんとか機嫌を直して、本題を聞いてもらわなければならない。
「ごめん! あいつらのこと悪かったよ。普通に追い返せばよかったのに、本当にごめん! バカな連中は見るとイライラするよな。僕もだよ」
「……」
これじゃない。次だ。
「ああ、クレープは重すぎた? だよな、晩御飯のこととか考えてなかったよ」
「……」
これでもない。もっと根本的なことか。
「分かった、急にバイト先に来たこと謝るよ。でもせっかく新品の本を買うなら、友だちのとこで買いたかったんだ」
「……」
どう投げても琉衣から反応が返ってこないまま、彼女が帰宅に使う路線のバス停に辿り着いてしまった。もうこうなったら率直に聞くしかない。
「なぁ、僕のどこが無理だったんだ? 何でも言ってよ。友人として信頼を回復したいんだ」
「……侍は悪くないよ」
ようやく言葉を返した、流し目で僕を見る琉衣はとても悲しそうな表情をしていた。まるで全てがどうでもいいと、何もかもを諦めているようにも見える。こんな顔の琉衣を僕は初めて見た。
「今の侍といる、自分が自分で無理になっただけ」
そう琉衣は言い残して、丁度到着したバスへ乗り込んでその場を去ってしまう。僕はゴテゴテにトッピングされたクレープを両手に、遠ざかるバスを見ながら途方にくれることしかできない。
「自分が無理って……訳分かんないよ……」
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