30.ユーキャンドゥイット!


 10月22日 土曜日 午後5時50分


[なんかヤバい事件が起きるかもってネットで見たんだ]

[今週末は駅前には来ないほうが良い]


 空が重く曇る下、僕は繁華街に近い通りの歩道橋の上で、琉衣に送ったメッセージに既読がつかないかスマホの画面を注視していた。昨日の夜、琉衣と別れてからすぐ送ったにも関わらず、一向に既読の文字はつかない。不安と焦りで前頭葉が重くなる。昨日あんな酷い別れ方をして、更に今回の『暴露作戦』に琉衣が巻き込まれたら、僕は悔やんでも悔やみきれない。僕は意を決して隣で音楽を聴いている葉へ話しかける。


「ねぇ、葉」

「どうしたの、レプト」


 葉はイヤホンを外して僕を見る。作戦前のため、まだお互いにマスクは被っていない。僕は彼女の色白の顔に見惚れそうになりながらも、自分の意見を口に出した。


「やっぱり作戦の中止をラフトラックに提案できないかな」

「どうして?」


 僕は葉に見て欲しくて、歩道橋の上から見える人ごみを手で指す。純粋に休日を楽しむ人たちと、選挙を目前に演説をしている女性議員とその支持者が見える。演説を聞いてるかはともかく、通行人の中にバイト帰りの琉衣がいないとは言い切れない。


「あんなに人がいるんだよ? 絶対に被害が出る。世界のためとはいえ、僕らのせいで誰かが死ぬなんて、そんなの間違ってる」


 本当の理由は葉には言えない。でも口に出した言葉も決して嘘ではない。雑多に見える群衆は、ロングショットで見れば愚かしい昆虫の群れと変わりないように見えるかもしれない。けれどクローズアップで見ればそれぞれに大事な人生や日常がある唯一無二の存在たちだ。それを僕らの都合で奪い去るのは高慢以外の何物でもない。


「……確かに。レプトの言う通りかもしれない」

「そうだろ? 今からでもラフトラックに連絡して――」

「だけど、今のAIAのリーダーはラフトラックなの。彼の作戦を優先するわ」

「でも……!」


 説得できない悔しさを隠せない僕の方へ、葉が近づく。


「レプト」

「何――」


 言葉の続きは出せない。

 僕の口が塞がったから。

 葉の柔らかな唇で塞がれたから。

 僕は真っ白になる頭は、葉の唇と口内に侵入する舌の感触しか感じ取れなかった。


 どれくらい時間がたったか分からなかった。彼女が僕から離れた時、僕の心臓は思い出したかのように早鐘を打ちはじめた。お前は好きな女とキスをしたんだと、僕に大声で告げていた。


「レプト、あなたを愛しているわ」

「なんで……」


 不思議だった。僕の口から出たのは「ありがとう」でも「僕もだよ」ではなく間抜けな疑問だったから。


「私の命を救ってくれた。復讐しか取り柄のない私と毎日一緒にいてくれた」


 それは僕のセリフだ。こんな取り柄のない僕に、君は価値を見出してくれた。君は僕を救ってくれたんだ。


「難しい戦いになることは間違いないわ。でも私を救ってくれた、幾多もインスマスを狩ってきた、私の愛するあなたなら、きっとやりきれるわ」


 現実感のない彼女の告白が、僕の真っ白になった頭に刻み込まれる。


「だから戦って、レプト。私のヒーロー」


 葉の瞳に僕が、僕の瞳に葉が映る。この時間が永遠に続いてくださいと、僕は信じる神もいないのに願った。


「全部終わったら、ずっと二人でいましょう」


 彼女の言葉が終わると同時にスマホにセットしたアラームが鳴る。作戦開始の合図だ。僕らの頭上を、みかりが作った塩水散布用大型ドローンが、ヘリコプターさながらの飛行音を響かせながら群衆目掛けて飛んでいく。作戦通りなら、街の他の場所でも同様のドローンがその役目を果たしているはずだ。

 ドローンが塩の混じった雨を局所的に降らし始めると、群衆のざわめきが強くなった。


「じゃあ、後で」


 葉は微かに微笑んで、銀色のマスクをいつものように被ると、ドローンが雨を降らせる方へ向かった。僕は何も言えず、彼女を見送ることしかできない。呆けていた僕が我に返ったのは、インスマス出現を知らせる、きわみからの着信音が聞こえたときだった。


「レプト! ××ビル付近でインスマスらしき怪物が現れたと情報が入った! 急いで向かえ!」


 僕は「了解」と短く返事をして、マスクを被り走り出す。どうやら本物の雨も降ってきたようで、小さめの雨粒がゴムで出来た鱗に当たり音を立て始める。雨音に交じって、葉の言葉が僕の頭の中で繰り返し聞こえてきた。


 終わったら、ずっと一緒にいましょう

 戦って、私のヒーロー

 あなたなら、やりきれるわ


 返事をすることがない声に、僕は答える。 


「ああ、やってやる」

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