第5話 熱轍銀夢
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バシキロフはリンクに出る前に少し動きを止めた。髪をまとめていたゴムをほどく。黄金色の髪が背中に広がる。
「かっこいい!」
三十二歳の橋田あゆみが若い娘のような口調で呟いた。
バシキロフは髪をひとまとめにし、前より高めの位置で結びなおした。
髪を伸ばすとジャンプに支障が出る可能性があるが、あるいは聖書に出てくるサムソンのように髪からエネルギーをもらっているのか。そういう与太が語られるほど、彼の能力には並外れたものがあった。
名前がコールされる。下位の無名選手だろうと前回優勝の生ける伝説だろうと、呼ぶ形式は皆同じだ。ひどく事務的に、リプレゼンティング・ロシア、イリヤ・バシキロフ。
歓声は起こらなかった。ささやかな拍手が一部で上がり、周囲の空気に気づいたという風で決まり悪げにすぐに止んだ。
異常な沈黙も意に介さず、バシキロフは悠然とリンクを半周し中央に向かった。
足元の軽い一押しが異様な推進力を生んで背筋の伸びた身体を一気に運び、雄大さと爽快さを同時に放つ。
膝を深く使わない素人のようなスタンドスケートでありながら ブレードが熱を生んで氷を溶かし、リンクに食い込む幻想を観る者に抱かせる。
そんな圧倒的な滑走が小さな半弧を描いてふいにやむ。平坦な白いリンクに臙脂と黄金の彫像が突然出現した。
今まで運動にまぎれていた存在感が、停止することであらわになった。ただの静止すら神秘の前触れとして、観る者の心を早くも貫く。
密着性のある臙脂色のコスチュームが手足の長い均整のとれた体つきを強調し、白い氷上に映える。臙脂の背中に金髪が垂れているのが装飾の一部のように見える。
その巨大すぎる才能と、天上的な演技の性質からバシキロフは「氷上のアマデウス」の異名でも呼ばれていた。
その呼び名に彼がふさわしい男だったかどうか、これからはかられることになる。
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