第2話 ヘヴン・オフ・アイス
(2)
グループ第五番滑走者の得点を告げるアナウンスを、環は競技リンク裏の通路壁際で聴いていた。ちょうどミックスゾーンでマスコミの直後取材を受け終わったばかりだった。
身体の中から冷たくなるような緊張感は通路にまで満ちているが、環はその中で強固な安全圏に入ってしまっている。いち早く仕事を終えた者の特権だ。
広く寒いリンクの上で、強い光と観衆の目に四方上下から晒されながら高度な技を切れ目なく繋げていくという、あの拷問のようなことを自分はもうしなくてもいいのだ。
そう思うだけで蕩けるような開放感が溢れてくる。スケート靴を脱いでしまい、足裏全体で床を踏みしめられる感触も嬉しさを倍加させる。
「小春川」
名を呼ばれて振り向くと、同じ男子シングル日本代表選手の
リンク裏手で各国の報道関係者や競技関係者が慌しく行き交う中を、邪魔にならないよう四人は隅によって話した。
「お疲れさま。後はもうゆっくりできるね」
コーチの橋田が笑顔で言う。
「ほんとですよね、男子シングルの日程が早いのはやだなあって思ってたけど、その分試合後ゆっくりできる時間が長いってことですもんね」
「それにしても小春川、改めて凄いよな。暫定とはいえ一位じゃないか」
雅之の言葉に、環は照れくささと誇らしさのない交ぜになった笑顔を浮かべた。中性的な優しい面ざしが笑うとより温かくなる。だがその表情はすぐ真面目なものになった。
ショートで十七位となり第二グループで発進した雅之は、このフリーでもジャンプミスを繰り返し暫定で総合十五位に転落していた。
環の心中を読み取った雅之は何気ない顔で言葉を続けた。
「そいじゃ、帰ろうか」
「あの、そのことなんですけどね」
環は少し遠慮がちに言った。
「僕、最終グループの演技リンクサイドで見たいんですけど。なんたって世界のトップシックスだし。イリヤ・バシキロフの最後の演技だし」
「ああ、そりゃそうね。あなたのことで頭が一杯で、そういう発想はなかったわ。野崎さん、構いません?」
橋田が付添いの連盟スタッフに声をかけると、相手は鷹揚にうなずいた。
「え、まあ、そうですね。車はもう用意してあるんですが、まあいいでしょう。小春川くんには勉強になるだろうし」
日頃選手を分刻みで管理したがる連盟が逸脱をえびす顔で認めるのは、やはり環が上位入賞を確実にしたということが大きいのだろう。
「小春川くんには勉強になるだろう」と野崎は言った。野崎、ひいては連盟の描く「これから」の中に二十六歳の雅之は入っていないのだ。
競技場の方から歓声が聴こえてくる。
まだ六分間練習のうちだが、おそらく選手が高度なジャンプを決めたのだ。そういう空気は、かつて雅之にとっても馴染みの深いものだった。
二〇〇六年二月十六日木曜日、午後十時四分(イタリア時間)。イタリア・ピエモンテ州トリノ。
冬季トリノ五輪、フィギュアスケート男子シングル・フリースケーティング。
今までの三時間以上の熱狂は前奏曲でしかなかった凄まじい興奮の、爆発の予感をすべての者に感じさせながら、最終滑走グループの演技が始まろうとしている。
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