第22話


日曜日、今日の午後から麻山はイオンに勉強を教える約束をしていた。

約束の時間になるまで、麻山は特にやることもなく自室のベッドの上でだらだらと時間を過ごす。


「……暇だなぁ」


麻山が水泳部を辞めた後、彼女はランニングや筋トレなどの最低限のトレーニング以外はしなくなった。


水泳部を辞めたので必要以上に身体を動かす必要が無くなったこともあるが、彼女自身の心境の変化も大きい。


一年ほど前までは、祖父母達に褒められたくて、水泳部を頑張っていた。


部活動だけではなく、勉強も頑張っていたが、今はその熱意もなくなっていたが、そんな時にイオンという少女が麻山の前に現れた。


イオンは日本語が上手く喋れずにクラスに馴染めない。落ち込んでいる彼女を見て麻山は昔の自分に重ね。その結果として、色々とイオンに世話を焼いている。


周りのこと、自分のことがどうでもよくなってきていた麻山にとって、イオンに出会えたのは良いことだった。


ゴロゴロとベッドの上で何をするでもなく、時間を潰していた麻山は、早く約束の時間にならないかと思っていた。


小学生レベルの勉強ではあるが、イオンという可愛い妹分が喜ぶ姿は麻山にとって心地よいものだ。


「勉強って、教えるの結構楽しいんよねぇ。それに武先輩か」


ふと机の上に置いた、青い人工の宝石のネックレスを起き上がって確認する麻山。


最近はイオンに勉強を教えることだけではく、武とは一緒に居ると楽しいと感じていた。

前から武をからかっていたが、その時の適当な暇つぶしではない、満たされる時間が楽しいと感じていた。


武と一緒に居る時間は、イオンに勉強を教えるの時とは違う意味で楽しい。

祖父母達に近い感覚だ。今の武と一緒の時間を過ごすと安心感がある。


少なくとも祖父母が亡くなってからは、満たされない日々が続いていた。

それを武とイオンが変えた。


「ああ、そうだ。今日、イオンちゃんの宿題が終わったら、イオンちゃんに何を教えようかな」


そう言いながら、宿題が終わった後のちょっとした問題のようなモノを麻山はスマホで良さそうなモノを探し出す。

イオンの学校の教科書や宿題で教えることも多いが、イオンが好きなアニメなどでも日本語の発音などを練習していた。

読み書きも大事だが、やはり会話が大事だ。日常系アニメでもタブレットで見せてあげようかと考える。


その時、麻山は漠然と将来の自分をなんとなく考えた。


「学校の先生か」


麻山は呟いてから、無いな。と思った。自分が先生になる。

少なくてもイオンと言う素直な女の子だから、教えているだけだ。


「でも、塾の講師とか良さそう」


将来の夢、祖父母が居た時は水泳でオリンピックで金メダルなんて言っていたことをなんとなく思い出した。

出来もしない夢を見る。けど、それが良かったのだろう。

祖父母達はどこまで本気だったのか分からないが、麻山がプロスポーツ選手になることを望んでいると思っていたようだ。


「うん、怒られるかな。お爺ちゃん達に」


自分でも熱中していた水泳をあっさり辞めたことを祖父母達はどう思うだろう。


「先生は無理だけど、塾講師ならとかって、はぁ。これから、どうなるのかな」


麻山は自分の傍に居る武とイオンとはずっと傍に居られないことを考えて、憂鬱な気持ちになった。







「それじゃあ、始めようか」

「うん」


約束の時間になり、麻山はイオンの家を訪ね、イオンの自室へと案内された。


女の子の部屋にしては物が無いが、海外から引っ越してきたことと、シングルファーザーだと聞いているので麻山は仕方が無いことだと考えた。

元々、イオンは父親のディスマスの仕事で一時的な留学だと聞いている。

あまり荷物を持ってくるわけがない。


それでも、女の子の部屋なのだから、今度、何かイオンの自室に置けそうな小物かぬいぐるみをプレゼントしようと考える。


「今日は算数のプリントだっけ?」

「はい」


麻山はイオンの学校の宿題のプリントに書かれている問題を読み上げていく。

麻山が読み上げたら、次にイオンが問題を読み上げる。

読み方を覚えるために時間はかかるが、麻山はそうやってイオンに読める漢字を増やしていった。

書くだけではなく、読み上げる。祖父母達はそうやって麻山の勉強を手伝った。


「次はね」

「うんうん」


イオンは素直な性格で、同世代の子供に比べて集中力があった。

麻山も幼い頃に祖父母に根気よく勉強を教えてもらった経験が上手く噛み合う。仮に麻山の祖父母達が頭ごなしのスパルタ教育を行っていたら。麻山が同じようにスパルタな勉強をイオンにも同じことをしていたら、麻山とイオンはここまで仲良くはならなかっただろう。


二人は休憩せずに集中して宿題を終わらせた。


終わった頃にはイオンは疲れてぐったりと机に突っ伏していた。

麻山も少し疲れを感じていたが、頑張って宿題を終わらせたイオンを労う。


「お疲れ様、頑張ったね」

「はい」

「何か飲み物を取ってこようか?」

「おねがシマス」


ぐでーっと美少女が机に突っ伏している姿は可愛くて、麻山ついイオンの頭を撫でてしまう。

麻山に頭を撫でられてイオンは猫のように目を細めて心地よさそうにしていた。


「じゃあ、取ってくるね。飲み物」

「はい」


名残惜しそうに麻山を見送るイオン。麻山も後でまた頭を撫でさせてもらおうと考えながら部屋を出た。

麻山は二階のイオンの自室から、一階のキッチンへと向かう。


この時、イオンの父親の部屋にある透明なプラスチックの箱が机から落ちたことに麻山もイオンも気づかなかった。




一階のキッチンに入った麻山は白いプラスチックのトレーにイオンが良く飲んでいる、紙パックのぶどうジュースとコップを二つ乗せた。

そのまま、キッチンを出てイオンの部屋に戻ろうとしたところ、スマホに連絡が入った。とても懐かしい着信音。母からの電話だった。


麻山が眉を顰めながら、スマホの画面を念のために確認すると、そこには母親と表示されていた。

麻山はトレーを置いて、息を整え電話に出る。麻山のスマホを持つ手が微かに震えていた。


「はい、もしもし?」


電話は表示された通り母親だった。

先ずは軽くお互いの現状の報告だった。業務連絡のようなやり取りをしながら麻山はさっさと話を終わらせたかった。


そして、麻山が連絡してきた理由を聞いてみると。


「はぁ、留学?!」


日本ではなく、此方へ来ないかと言う誘いだった。

生前祖父母達から散々子供をほったらかすな! と怒られていたが、それでも両親が仕事を優先したのは、仕事が楽しいということもあったが、目的はお金を稼ぐためだった。

麻山の母が言うには、両親なりに麻山のことを愛していた。

だが、効率を求めた結果、祖父母達に麻山を結果的に頼んで金を貯めた。と母は麻山に告げた。


「じゃあ、なんで、おじいちゃん達が死んだ時にすぐにそれを言わなかったの?」


怒りが込められた声に麻山の母も焦っていたが、結局のところ大きな仕事を抱えていた。と言われてしまう。

麻山はイオンの家だからと怒りを抑えながら、母にこう告げた。


「おじいちゃん達の葬儀の時にそれを言えば良かったでしょう? それなら、中学だったし、留学の準備も出来た。けど、今はもう無理。留学はしないよ」


本当は母を怒鳴りつけたかった麻山だったが、ここ最近は武という気になる異性と可愛い妹分のイオンも出来た。

祖父母達が生きていればもっと良かったのに。そう思いながら、麻山は母との電話を終わらせることにした。


「話は分かった、でも、私は日本から離れないからね」


麻山の母は麻山の声色を考慮して大人しく引き下がり、麻山は通話を切って深く溜息をついた。


麻山はどっと身体に疲れを感じ、今すぐにベッドにダイブしたい気分だったが、ここはイオンの家だ。


トレーの上に置いているぶどうジュースの紙パックは冷蔵庫から出したお陰でうっすらと汗をかいている。

温くなる前に、早くイオンの所に持って行ってあげようと麻山は思い、彼女がトレーを持とうとしたところでキッチンから見える、リビングのドアがゆっくりと開いた。


「え?」


麻山が呟くとスーッと音もなく開かれた扉の影から、俯いたイオンがゆっくりとこちらへ歩いてい来る。

彼女の両手には、透明なプラスチックの箱を持っていた。


「どうしたの?」


様子がおかしいことを察して麻山はトレーを持たずに、キッチンからリビングへ移動し、俯ているイオンに近づくと、イオンはそのままバタリと前へ倒れ込んだ。


「イオンちゃん!?」


倒れ込んだイオンを慌てて抱き起すと、イオンはぐったりとしていた。


「ね、ねぇっ、イオンちゃん! 急に」


どうしたの? と声に出す前にイオンが抱きかかえていた、透明なプラスチックの箱の蓋がガタリと開いた。


「っ?!」


突然のことに、麻山は倒れた衝撃で箱が壊れたのかと思った。

だが違った、箱の中にある茶色い薄汚れた毛糸が突然生き物のように蠢き、そのまま毛糸が麻山に襲い掛かってきた。


「なっ!? 何!? 何なの!?」


あっという間に全身を毛糸で拘束されて、身動きが出来なくなった麻山。


何が起きているか分からない。


イオンがリビングにやって来て、突然倒れて、抱き起こしたらプラスチックの箱の蓋が開いて、生き物のように動く毛糸で自分は身動きが取れなくなった。

訳が分からないと麻山は心の中で叫ぶ。


「『長かった。長いという言葉だけでは足りないくらいではあるがな』」


倒れているイオンの口から、綺麗な少女の声と荒々しい男の声が聞こえてきた。

その二つの声に驚いて、麻山は倒れているイオンを見詰める。


「『だが、我は運が良い、実に我は運が良い』」


麻山は連続で目の前で起こった怪奇現象にもう心がどうにかなりそうだった。

だが、眼の前にいるのは可愛がっている妹分のイオンだ、彼女は必死に目の前の現実に目を向ける。


「『まさか、自分の方から宝物を持つ者が現れるとは、もう少し復活には時間がかかると考えていたが』」

「な、なに? 何なの?!」


麻山は必死に体の自由を奪っている毛糸を外そうとするが毛糸はびくともしない。

それどころか、さっきよりもしっかりと麻山の身体を拘束してくる。


「『小娘よ、喜ぶがいい。お前が持ってきた宝物は有効利用してやろう』」


イオンが顔を上げるとそこには普段のような愛らしい表情ではなく、人形のような無機質な表情をしたイオンが、麻山が身に着けていた青い石のネックレスに手を伸ばす。


「『膨大な魔力だ。都市を粉砕できるほどの力。まさか、こんなにも簡単に手に入るとは』」


人形のように無表情のイオンは麻山からネックレスを引きちぎる。それと同時に毛糸が触手のように蠢き、青い石のネックレスを持つイオンの右手を包み込んだ。


「『刮目せよ! 娘よ。我の復活をな!!』」


青い石からまばゆい光が溢れ出し、麻山が眩しさのあまりに目を瞑る。

まばゆい光は数秒リビングを包み込み、光が収まって、麻山がゆっくりと目を開けると自身の目の前には天井に頭をつくほどの身長で、上半身は裸で下は麻のズボンを履いた、筋骨隆々の人の形をした牛が立っていた。


「ふははははは!!! やったぞ! やっと肉体を取り戻したぞ!!」


牛の顔をした異形の人物が、高笑いをしながら手にしていたネックレスを投げ捨てる。

ネックレスに取り付けらえた青石は砕け散り、イオンは床にぐったりと倒れ込んでいた。


「い、イオンちゃん! あ、あなた、あなたは何なの!?」


頭が目の前の光景に追い付いていない、だが麻山はどうにかそれだけを叫ぶことが出来た。

訳が分からない、だが可愛い妹分を守らないとそう思いながらの叫びだった。


「ふははは、怯えるな娘よ」


ぐっ、ぱー、ぐっ、ぱーと牛の頭の巨漢は両手を握ったり開いたりしながら、自分の身体の具合を確かめる。


「ふははは、人間共、我を生み出し、迷宮へ押し込めた人間共への復讐はこれから始まる。娘よ、手始めにお前とその小娘はこれから我の巫女として」

「――おい、牛野郎」

「ん??」


牛の顔の巨漢の背後から声がかけられた。

その聞き覚えがある声に麻山は心臓が跳ねる。本来なら聞こえない筈の声。

自分が信頼できる、祖父母達以外の声。


「麻山に渡したネックレスが突然破壊されたからさ、何事かと思って慌ててネックレスを起点に転移をして来てみれば」

「な、なんだと!? お、お前、いつの間に現れた!?」

「頭が牛のおかしな、モノがいるんだが。これはどういうことだ?」

「せ、先輩?」


毛糸に拘束されながらも、眼の前の現実にさらに混乱する麻山が武を呼ぶと、武は苦り切った表情で深いため息をついて、何もない空間。イベントリから一般的な包丁より、サイズが大きい肉厚の包丁を取り出した。


「まあ、いい。取り合えず、お前さ。俺の後輩とその妹分に何してんだ? いや、何をしようとした?」

「むぅ、何者か分からないが、突然現れたところを見ると、魔法使いだな?」

「おい、質問に答えろ」

「無礼だな、小僧。我こそは――」


武は自分の質問に答えない牛頭に、無言で包丁を振り下ろした。


牛頭は「愚か者め!」と笑いながら、左手で包丁を受け止めようと手を包丁へ伸ばす。


――ザシュッ! と生々しい肉を切り裂く音と、遅れて――ブシュッという、水が噴き出る音がリビングに響き渡った。


「ぎゃああああああああああ、痛ったああああああああああああ!!!!!!!!!!」

「あ、阿保がいる。避けずに受けるとか」


牛頭の行動に、武は頬を引きつらせる。

武の予想では受け止めるにせよ、魔力か何かで身体を守ると思っていたが、そんなの一切しなかった。

武から言わせてみれば、初めて現れた敵の攻撃を何の備えもなく無防備に受けるとか、馬鹿か阿保だと思った。


「ば、馬鹿な! 我の皮膚をただのナイフで切り裂いただと!?」

「ただのナイフね。まあ、お前が何者かはもう分かっているから、あえて言わせてもらうが。この包丁はな、まぞ、いやミノタウロスぞ、んん、ミノタウロス用に作られた牛刀だよ」

「――な、なんだと!? わ、我用に作られた短剣だと!? ――そうか、お、おのれ、テーセウスめっ! 我の復活を予想し、そのような物をこの世に残しておくとは!!!」


見当違いなことを叫ぶミノタウロスに、武は深いため息をつきながら、ミノタウロスに武はこう告げる。


「確認するが、大人しくするつもりはあるか?」

「我に傷を与えておきながら、そのようなことが言えるな? 我を迷宮に封じ込めた者達の血筋ではないようだが、神の力を宿した我の皮膚に傷をつけたのだ。ただで死ねると思うな!!」

「あー、そういえば、ミノタウロスの母親は女神だったかもしれない人だったっけ? だから、スキルに【神威】があるのか。ま、どちらでもいいか」


ミノタウロスから聞きたいことを聞いた武は、麻山の目の前なので、しつこいとは思ったが、武はもう一度ミノタウロスに確認をした。


「じゃあ、本当に戦うってことで良いんだな?」

「都市を破壊できるほどの魔力を持つ我と戦うと? 人間よ、テーセウスが残した短剣があろうとも、簡単に我を殺せると思うな!!」


ミノタウロスは身体の奥底から、選ばれた存在しか使えない【神威】を発動させる。


その瞬間、麻山と気を失っていたイオンが飛び起きて、二人は目の前にいる神の前に平伏した。


「そうだ、それでいい。人間よ。お前もテーセウスではなく」


平伏した麻山とイオンを視線を送り、武へ視線を移したミノタウロスは信じられない者を見た。


ミノタウロスの目の前には平然とした表情の武がイベントリから、禍々しい灰色のゴムのような質感の杖を取り出していた。

その杖は六十センチほどの長さで、先端には灰色のリアルな質感のタコのような飾りがついていた。


「イア! イア! ハス、じゃないや。コイツの場合はなんだっけか」

「な、何故、貴様は平伏さない?!」


英雄と呼ばれる存在でなければ、ミノタウロスが使った神威の前では無力な存在になる。

にもかかわらず、眼の前にいる人間は何事もなかったかのように立っている。

ミノタウロスは目の前にいる人間に恐怖を感じた。


「まあ、下級眷属ってところかな?」

「な、何のことだ!? 下級眷属?!」


武は目の前にいる今のミノタウロスの強さは、呼び出された異世界で、何度も戦い撃破した邪神の下級眷族くらいの戦闘力だと確信した。


「今回の一件は俺が麻山に渡したネックレスが原因だと分かったし、まあ、とりあず。どんな手段でも倒せるけど、一番楽な方法で良いな」

「た、倒すだと? 神威に抗った程度で図に乗るな!!」


ミノタウロスは目の前にいる男を殺すために、鋼鉄よりも堅い、己の右腕の男に振り上げる。


城壁すらも一撃で粉砕する拳で、ミノタウロスは目の前にいる人間を殺すつもりだった。


それとほぼ同時に武はミノタウロスへ禍々しい杖を向けて魔法を使用する。


「【スロー】【パワーダウン】」

「ぬっ?! ぐぉ、か、身体が、お、遅い?!」


武が魔法を二つ唱えると、ミノタウロスの身体は黒と赤の魔力で包み込まれる。


スローと言う魔法は掛けた対象の動きを大幅に遅くする魔法。パワーダウンは掛けた対象の攻撃力に関わる能力を大幅に低下させる魔法だった。


ゆっくりと蝶がひらひらと飛ぶような速度でミノタウロスの右腕の拳は武の目の前を通り過ぎる。


「室内で暴れるなよ。お前の身体能力で考えなしに暴れたら、家が壊れる。それに今のお前の力の源は魔力のようだな。というわけで【マジックドレイン】」


武が【マジックドレイン】を使用すると、ミノタウロスから薄い青い魔力が武の禍々しい杖に吸い取られていく。


「ば、馬鹿な! 我の魔力が吸い取られただと?!」

「お前の魔力じゃない。俺の魔力だ。まさか、本当に分かってないのか?」

「何がだ!?」

「青いネックレスに入っていた魔力は俺の魔力だ」

「…………何を馬鹿なことを、都市を破壊できるほどの魔力を人間があの宝物に込められるわけが無い」


武の言葉をミノタウロスは鼻で笑った。人間で都市を破壊できる魔力を持つ者、それはミノタウロスが生きていた時代は英雄と呼ばれる存在だけだ。


眼の前にいる人間の男にそこまでの力をミノタウロスは感じられない。


だが、ここでミノタウロスの育った環境が災いした。ミノタウロスは迷宮の奥で人を食らい力を付けた。それ故にミノタウロスは戦闘経験が圧倒的に少なかった。


当時のギリシャ世界の戦場に出ていれば、眼の前にいる存在がどれだけ危険なのか、本能で分かったかもしれない。


迷宮に押し込めらえていたミノタウロスにはそれを察することが出来なかった。


「ま、いいさ。さっさと終わらせよう。動くなよ。【マジックチェイン】っと」

「ぬぅ?! こ、これは魔力の鎖! だが、この程度の鎖など、我にかかれば直ぐに! 直ぐに!! ――っ?! なぜだ!?」


ガチャッン! ガッチャン! と魔力の鎖を激しく鳴らすミノタウロスだったが、魔力の鎖はびくともしない。


「あ、あり得ぬ。人間が作った魔力の鎖で、我がここまで動きを封じられるわけが!」

「なぁ、気づかないのか?」

「き、気づかないだと?! 何がだ!!」

「お前が立っている床、お前が全力で足を踏ん張っているが軋みもしないな」


ミノタウロスはハッとなり足元を見る。一般的なフローリングの床だ。

見た目以上に、復活して肉体を手に入れたミノタウロスは重い。更に神話に登場する怪物である。

元々の怪力と魔力による肉体の強化。本来ならミノタウロスが力込めて踏みしめた床は、無残に破壊されているはずだ。


「何故だか分かるか? 俺がここに転移してお前を確認、即座に強化魔法を使って部屋全体を強化していたんだよ」

「……ば、馬鹿! いつの間に魔法を?! ありえぬ! 我に感知できずに魔法を使うなど!!」

「脳筋すぎるな。肉体系スキルはちょっとはあるけれど、魔法系。特に感知系のスキルは無しだから、仕方が無いけどな」

「な、何の話だ!!」


武はミノタウロスの言葉を無視して、小さく息を吐く。そして、ジッとミノタウロスを観察するように見つめて呟いた。


「恐らく、四回くらいでいけるかな?」

「よ、四回だと? 何の話だ!!」


武はゆっくりと禍々しい杖をミノタウロスに向けて、自分の全身に魔力を循環させる。


この時になってようやく、ミノタウロスは自分の目の前にいる存在が、自分の考えているよりもはるかに危険な存在だと認識した。


ミノタウロスの全身から冷汗が噴出し、武は無慈悲に告げた。


「【マジックドレイン】【マジックドレイン】【マジックドレイン】【マジックドレイン】」

「ま、魔力がまた吸われてぇっ!! や、やめろぉっ!!! わ、我の魔力をおおおおおおお!!!!」

「だから、お前の魔力じゃない。俺の魔力だって、とりあえず。ギリギリまで吸い取るからな」

「ああああああああああ!!」



この日、世界を揺るがす神話の時代の怪物が復活した。


だが、その怪物が復活したことも、復活して数分で鎮圧されたことも、裏の世界の魔法組織達にも知られることはなかった。





――アンネローゼの屋敷 談話室



アンネローゼは武からの可及的速やかに会って話がしたい。と言うメッセージが送られてきて何故か猛烈に嫌な予感がした。

更に縁眼も連れて行くというメッセージで、何か起こったのだと確信した。


だが、アンネローゼは今手元にある情報から、何か起こるとは考えていなかった。

専属の侍女のアメリアにも確認したが、武が話がしたいと連絡を入れてくるような火種は何もなかった。

先日日本にやってきたギリシャから来たヒドラの調査隊の人員は大半が九州にいる。残りも近いうちに九州へ移動することになっていたはずだ。


アンネローゼは不安を押し殺しながら、武達が来るのを待ち。

屋敷に武達が到着すると直ぐに談話室へ通した。


武達を見て、アンネローゼは初めて見る顔を一人確認した。

牛を可愛くデフォルメしたぬいぐるみを抱いたイオンだ。


麻山は武と仲の良い後輩だという情報はアメリアから聞いて、知っていた。

だが、魔法関係者ではない筈だ。その少女を連れてきたこと。更にプラチナブロンドの美少女のイオンを見て、武が今度は何をしでかした? とアンネローゼは不安になった。


「ま、とりあず、自己紹介をしていこうか。麻山」

「あ、はい、麻山美波です」

「イオン・フロラキス、です」

「我がミノタウロスである!」


牛のぬいぐるみの名乗りにアンネローゼは目玉が飛び出るほど驚いた。

アンネローゼの背後で控えていたアメリアも実は驚いていたのだが、誰にも見られなかった。


「ミノ、タウロ、ス?」

「ああ、そうだ。ミノタウロス。クレタ島? と言う島の迷宮に封印されていた化け物ね。ちなみに、このイオンちゃんのお父さんはギリシャの魔法考古学者のディスマス・フロラキスさんで、今はヒドラ調査の為に日本に引っ越してきたんだってさ」


訳が分からない!!


アンネローゼは自分の心の奥から湧き出てくる感情を制御する為に、椅子から立ったり座ったり、紅茶を一気飲みして、最後は結局こう叫んだ。


「武! 貴方は一カ月半置きに大事件を引き起こさないといけない病気にでもかかっているのーっ?!」


アンネローゼの叫びに、既に驚き疲れて大人しくしていた縁眼が、アンネローゼに同意するように何度も頷いていた。

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