第10話 銀盤量子論

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 場内のそこかしこから、演技終了後かなりの間をおいて遠慮がちな拍手があがった。

 会場内にまだ多数残るフーリガンの存在を気にしてそのような状態になったのだが、レオもゆっくりと、しかし大きく手を叩きながら隣のフーリガンが渋い顔をしているのを横目で見て、痛快感を覚えていた。

 おそらく男が感じているのは、バシキロフがミスをしなかったことに対する不満ではない。完全に侮蔑していた相手の演技に、心を動かされてしまったことに対する腹立ちだったのだろう。

 点数が出て、もちろん暫定首位の座を得てバシキロフは裏手に引き取り、入れ違いに二番滑走としてマック・ディーリアスが出てきた。試合が始まって以来の爆発するような大歓声があがり、レオは思わず身を縮めた。

 政治的な思惑を抜きにしても彼はアメリカジュニアのエースであり、優勝候補だ。観客席の大方はアメリカ人でさらにはダラス市民である。彼らのあげる大歓声の中に、さらにフーリガンの口笛が加わる。

 リンク中央に出て行く彼の身ごなしを見て、レオにはこの時点でもう今後の展開が予想できた。

 小学生ながら試合に出場し、コーチや先輩選手から様々な話を聞いてもいる一人の競技者として、試合における不可視の力学をレオは承知していた。

 優れた完璧な演技が放つオーラというものがあり、演技者が去った後もそれは氷上に滞留し、次の者を縛る。

 ただ演技するだけならまだしも、それに勝てるだけの演技をしなければならないのだ。まして今回はアクシデントにより演技開始時間が大幅にずれこみ、さらには狂的なまでの大歓声が降り注いでくるという状況だ。

 マックが堅くこわばった動きで滑りながら、転倒や回転抜けを繰り返す様をレオは悲痛な思いで見つめた。

 点数が表示され、順位はこの後に滑走者を四人残した時点で五位となった。フーリガンたちがまた鳴らしたブーイングは、場内の空気に今度は彼らが押された形ですぐに止んだ。

 その後最終組に入っていたもう一人のアメリカ人選手も、マックが果たせなかった分を巻き返す期待を込めた大歓声に萎縮したのか結果を出せず、他の最終組の選手も同様だった。

 たとえブーイングや必要以上の大声援が起こらなくとも、時間開始時刻が大幅に遅れ、調子を乱されているのだ。

 結局メダリストになったのは、一位バシキロフ、二位と三位が三番滑走グループで滑った中国とルーマニアの選手だった。六点満点の採点法下では前代未聞のことである上に、共和党の牙城で旧共産圏の選手が表彰台を独占することになった。

 激しいブーイングときつい口調で静粛を求めるアナウンスが入り交じって騒然とする中で、表彰式が行われた。

 運営スタッフの判断からか国旗の掲揚も国歌の放送も行われなかったが、イリヤ・バシキロフは終始落ち着いた態度で金メダルを首にかけられていた。

 一連の進行を見ながら、レオは深い感動に包まれていた。

 あのような人間がこの世に存在するということがまず驚異的だったし、その堂々とした態度にも打たれた。しかも同じ競技をしている、年も近い少年なのだ。

 自分が八年もフィギュアスケートをしてきたということが、今ほど誇らしいことはなかった。続けているだけでなく、ちゃんと高いレベルで結果を出せてもいる。

 このまま努力すれば、あのロシアの神童と同じ位置に立ち、競い合うこともできるのだ。そう思うとかつてない熱と昂揚が体の奥から沸き起こってきた。

 今まで世界ジュニア出場を当面の目標に据えていたが、それが「世界ジュニア優勝」に完全に切り替わった。それもあと四年内、今のバシキロフと同じ年になるまでに成し遂げるのだ。

 そのキャリアをもって六年後のオリンピックに必ず出場し、あの男と競うのだ。

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