第9話 氷彩陸離の歌
(2)-6
バシキロフはリンク中央に片膝をつく体勢になった。場内に静寂が満ちる。とにかく、演技中に野次やブーイングが飛ぶことだけはないようレオは願った。
音が流れ始め、それに伴いバシキロフも流れた。
金髪の頭が空間を斜めに横切って上に向かい、曲の立ち上がりを具現化したようなその流麗すぎる動きに魅入らされ、気づいた時には氷上の少年はもう滑走を初めている。
寂しく哀切なフルートにクラリネットが穏やかに寄り添う。
そこにハーブが控えめにリズムを訥々と置いていく簡素な調べと、静かでなめらかなスケーティングは早くもどちらが欠けても成り立たない不可分のものとして合わさって広がり、観る者の視覚と聴覚の両方に速やかに沁みいっていく。
トリプルアクセル、トリプルトゥループ。
シニアのトップクラスにさえ困難なジャンプコンビネーションの成功に、しかし拍手や歓声は起こらなかった。
一切の力みなく飛び上がり、余裕をもって高く回転し、自然に降りて何事もなかったように滑っていったために、まるで風に吹かれて二度舞い上がり、地上に戻ったというようにしか見えなかったのだ。
耳に残る乾いた着氷音の二連続だけが、ジャンプが跳ばれたことを印象付けるよすがだった。しかしそれでも不意打ちで見せられた飛翔の光景は、会場の人間すべての魂を眼前の氷上夢宴に杭のように貼りつけた。
人工氷のリンク上に幻想の風が吹く。中央アジアの大草原に吹きすさぶ、悠久の彼方から吹いてきて様々な歴史や風土を撫で更に深みを増した風だ。
草原に生きる一部族の王子がその追い風の中を心の赴くままに駆けているような、またはその風そのものになったかのように思わせる滑走の中に、単独のトリプルアクセル、ルッツからの3+3+2を含むジャンプコンビネーションが完全に溶け込み、観る者の意識を静かに確実に揺さぶっていく。水色の空と緑褐色の草原しかない、中央アジアの広大な風景が確かに見える。
音楽はいつしか躍動する祝祭の調べに変わっていた。あまりに演技に引き込まれた心に、音楽の静から動への変わり目は動揺を与えることなく軽々と入り込んでいた。
いつの間にか管弦や打楽器の種類と数を膨大なものにしていた音楽は、交響楽の重層性をもって熱宴の昂揚をさらにいや増し掻き立てる。
相関と相乗の作用によって演技者のサーキュラーステップは力強く勇壮なものとなり、やがて大円周を閉じてリンク中央に滑り戻る。
華麗なバレエジャンプで舞い上がり、着地とシンバルが計ったように同時になされ、バシキロフは片膝をついた体勢でありながら演技冒頭とはうらはらに胸を張って顔を上げ、勢いは消えずにその姿勢のまま一ヤード余り氷上を滑りやがて止まった。
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