第8話 ラピスラズリ・アンド・ゴールド
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それを嚆矢に、観客席のそこかしこからガムやグミの袋らしきものが投げ込まれ始めた。
当たっても怪我をしないもの、汚くないものを使ったのは、せめてもの良心の現われなどではなかっただろう。広大なリンクの中央で、バシキロフはうなだれたまま微動だにせず立ち尽くしていた。
静粛を求めるアナウンスの声に仕事の領分を超えた苛立ちが混じり、バシキロフはコーチに名を呼ばれリンク外に引き上げた。観客席に大会スタッフが荒々しい勢いで踏み込んできて、物を投げ込んだ男たちの腕をつかんで連れ出していった。
レオの隣の男を含め、男たちは案外抵抗もせずに連れ出されていった。彼らとしては、ただバシキロフの集中を乱せればそれでよかったのかもしれない。
リンク内に投げ込まれた菓子類が片づけられ、バシキロフは再び氷上に戻ってきた。その姿を見て、レオはこれまでの人生中で最大の心痛を味わっていた。彼はおそらく本物の名選手だ。その彼の世界へのデビューとなる大事な試合がこんな低劣極まりないやり方で汚され、しかもそれをしたのは他ならないレオの同胞なのだ。
彼は今回は、きっともうまともな演技はできないだろう。フィギュアスケートの演技はただでさえ繊細過敏なものである上に、選手は開始時刻に向けて極限の集中をする。一分遅れても早まっても精神が乱れる。
単純に開始時刻だけとっても大幅にずれ込んでおり、さらには客席には先刻の野次を飛ばした男たちがいまだ多数居座っているのだ。
天井から吊られた巨大モニターのカメラ映像がアップに切り替わり、イリヤ・バシキロフの顔が大写しになった。同じ男で、子供でありながらレオは一瞬胸をつかれる思いがした。
バシキロフの顔立ちが整っていることは新聞記事の写真でも六分間練習を遠目で見るのでも見て取れていた。
だが、素直な輪郭の中に形よく気品ある各パーツが完璧にあるべき位置に置かれた、非地上的な空気をまとう造作が巨大画面に大写しになったのを目の当たりにすると、この世ならざるものを見た眩惑に一瞬襲われた。
神話時代の神の愛し子のようなその面差しは、決して無感情ではないが特に動揺や不安があるようにも見えなかった。
金髪に深い青色の瞳という典型的なコーカソイドだが、その容貌にはどこか純血的でない、クリアでないものが感じられた。
後になって思い至ったことだが、それはロシアという国の抱える神秘と憂愁の深い闇のせいかもしれなかったし、あるいは国の位置柄、その体内に流れている可能性のある東洋の血筋のせいかもしれなかった。
いずれにしてもその顔立ちはアルカイックな表情と相まって、今彼がまとっている七分丈で末広がりの袖をした茶色基調の上に華やかな刺繍の胸当てをつけた中央アジア的な衣装と、ウシャンカ(ロシア帽子)風の被り物に違和感を生じさせることなくよく合っていた。
プログラム曲目はアレクサンドル・ボロディン作曲「だったん人の踊り」。内輪では大らかだが反面極めて排他的で、テキサス在住のアメリカ白人以外は人間だと思っていないテキサス住民相手にユーラシアを叩きつけるという時点で、もう十分に挑発的なプログラムだ。
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