第7話 若獅子と神童
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フィギュアスケートの試合は種目別ではなく日別でチケットが販売されるため、チケットを無駄にすまいと思うとほぼ一日仕事になる。
その日は昼前から日中にかけてアイスダンスのオリジナルダンス、その後に男子シングルのフリーが予定されていた。
レオにとっては初めて生で観戦する大きな公式試合(国際スケート連盟が主催あるいは承認する国際大会)だった。
心中は選手たちの演技への期待で一杯で、長時間一人で観ることに対する不安はまったくなかった。
観客席は三分の一ほどしか埋まっていなかったが、レオは食い入るようにアイスダンスの演技を見つめ、一組の演技が終わるごとに懸命に手を叩いた。
ジュニアといえども集まるのはジュニアの年齢層において世界トップクラスの選手たちであり、また生で観る滑走の迫力は、テレビ画面から得られるものとは桁違いだった。
アイスダンスの時間が終わった。レオは一旦外に出て軽食を摂って腹ごしらえし、客席に戻った。
ここから先は意識を切り替え、単純に賞賛し感動するのではなく、分析し、自分の向上に役立つものを見つけ出す意志を持って観なくてはならない。
フィギュアスケートに真剣に取り組む小学生としてレオは当然将来の世界ジュニア出場を目指しているし、またそれは無理な目標ではないと思っている。そしてキャリアに弾みをつけ、十七歳で迎えることになる次の次の五輪、ソルトレイク大会を目指すのだ。
選手たちの演技は粛々と進み、後半第三滑走グループに入ったころから徐々に客席は埋まり始めた。
ジャンパーを着込んだ労働者風の体格の良い男たちが多く、そういう男たちが空いていた両隣りにも座ってきて、レオは嫌な思いがした。彼らは明らかに酒の臭いをさせていた。
第三グループ最終滑走者の得点が出て、最終グループの演技時間になった。
六分間練習で氷上に六人の少年たちが散っていく。その中で、見るからに違う空間にいる者が一人いた。動きの切れも放つ空気も、他の選手たちと全く別物だった。
身体に特別な膜を張って場内の緊張が内に沁みこむのを防いでいるかのような軽やかさで、イリヤ・バシキロフはトリプルアクセルを跳んだ。
着氷直後、観客席から一斉に野太い声でブーイングがあがった。レオは身の内が冷える思いがした。たとえどのような理由があろうと、優れた技にブーイングを浴びせられる神経はレオの理解できる範囲を超えていた。
六分間練習が終わり、選手らが氷の上から引き揚げていく。
一人リンクの上に残ってフェンス越しにコーチらしき男性と言葉を交わしているのは、第一滑走者イリヤ・バシキロフだ。
名前と国名がコールされ、バシキロフはリンクに滑り出て中央に佇立した。レオは目をしばたいた。リンクが狭く見える。
理屈抜きで流れ込んできた未体験の感覚の意味を考える間も与えられず、先刻以上に大きな指笛交じりのブーイングが一斉に上がった。
やがて一人が大声で叫んだのをかわぎりに、ゴーホームの連呼が場内を満たした。レオは愕然とした。フィギュアスケートの試合で観客がフーリガンと化すなど聞いたことがない。
右隣から上がっていた声がふいにやんだ。男は声を上げる代わりに鞄に手を入れ、板チョコレートをつかみ出した。ヘイ、コミー(共産主義者を表す蔑称。日本語で言うところのアカ)・ボーイ! こいつを持っておうちに帰りな。
そう怒鳴ってチョコレートをリンク内に投げ入れた。
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