第3話 遍歴の始まり
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転機は一九九四年、レオがスケートを始めてから六年目の春に訪れた。会社から帰ってきたサファトは、ひどく思いつめた表情の妻と息子に出迎えられた。
リビングでサライは、レオのスケートクラブの移籍を考えていることを語った。
レオはコーチが驚くほどの進歩を遂げて、九歳にして全六種類のダブルジャンプを習得しさらにトリプルにも成功するようになってきた。
レオも今年で十歳になるので、発表会のような遊びの大会ではなくジュブナイル(アメリカのフィギュアスケートにおけるジュニアの下のカテゴリ)の正式な大会に出ることになる。
これを機会にもっと有力なコーチにつけて、競技者として本格的に取り組ませたい。テキサスはスケートが盛んな土地柄ではないが、色々調べた所ダラスに良い先生がいることが分かった、というのだった。
言うまでもなく、ダラスとコーパスクリスティは日帰りで往復できる距離ではない。だからサライとレオだけで向こうに住むか、あるいはサファトが会社にダラス配転を願い出て一家揃って移住するということを考えてほしいとサライは付け加えた。
サファトは唸り声を上げた。フィギュアスケートなどという女の腐ったようなスポーツに息子がこれ以上のめり込むというのは許容できる範囲を超えていたし、そもそもフィギュアスケートでなくても、この年からそんな投資をして将来ものにならなかったらどうしようもない。
そう思いつつも言葉に出せないでいたサファトに、今度はレオが手を祈りの形に組み合わせて懇願してきた。
自分は絶対フィギュアスケートでチャンピオンになる。オリンピックで金メダルを獲る。もし願いを聞いてくれるなら、スケートの練習はもちろん学校の勉強も家の手伝いも一生懸命やる。そう必死の面持ちで言いつのった。
先の二月、ノルウェーのリレハンメルで開催された一九九四年度冬季五輪に子供心にも強い印象を受けたようだった。
フィギュアスケート種目の演技はサファトも妻子に付き合う形で観たが、いかにも女の好みそうな美しさがあるということは認めつつも、テキサスの男がやるべきスポーツではないという考えは変わらないでいた。
だがサファトは、反論することなく結局折れた。
妻子を愛していたし、また二人と離れて暮らすなど考えられなかった。もっとも、配転は社員個人の一存で決められるものではない。
今より小さな場所に移るのならまだしも、ダラスはコーパスクリスティよりはるかに大きなテキサスの中核都市だ。
しかし期待せずに掛け合った先の上司はあっさりうなずいた。先日のヒューストン本社との合同プロジェクトで君の働きを向こうの人間が評価していてね。本社に招きたいという申し出があったんだ。ダラスで働きたいというのなら、まあ、許可されるだろう。
サファトは唖然とした。ヒューストンはテキサスの州都であるのみならず、アメリカ有数の大都市だ。
全米でこれより大きな都市といったら、ニューヨークとロサンゼルスとシカゴしかない。サファトの表情に頓着せず上司は言いついだ。
しかし何だな、フィールドの魔術師の息子がフィギュアスケートをやるなんてな。君だって昔は息子に将来フットボールをやらせるんだって言ってたじゃないか。フィギュアやる男って大概ゲイなんだろ? 家族サービスもいいが、レオがその道に走らんようしっかり監督しとくんだな。
サファトは頭に血が上りかけたが辛うじて堪えた。上司には悪気はないのだ。
それどころか、彼の発言に関してはサファト自身も同じことを思っている。だがそれでも、他人から息子を貶めるようなことを面と受かって言われると腹が立つ。
レオがフットボーラ―に相応しい強い心身を持っていることは、父親たる自分がよく知っている。
それをあんな女々しく閉塞的な競技に費やすのは宝の持ち腐れかもしれないが、子供にやりたいことがあるのなら可能な限り望みを貫けるようにするのが親の務めだ。
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