第8話 夢を叶える条件~イデアリズム~
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思わず顔を跳ね上げたリアムに、マリーは微笑みながら、
「オペラ座がね、七月に欠員募集のオーディションを開くの。それを受験するつもり」
リアムは呆然とした。パリ・オペラ座バレエ団の名は、世界最高峰のバレエ団としてもちろんリアムも知っていた。しかし雲の上の存在だった。
それどころか、まるで非現実のファンタジーの国の物のように実態を感じさせない代物だった。そこのオーディションを受けると口にされただけで、目の前の娘が近寄りがたい存在に思えてきたほどだった。
マリーは淡々と、
「あそこはね、団員はほとんどが付属学校の卒業生で占められてるの。たまに行う欠員補充のオーディションには、世界中からバレエ秀才が殺到してくるわ。私がその中で選ばれて入団して、さらにエトワールになれるのはフランス人だけというルールを超えてエトワールになるのと、あなたがロチェスに受かってプロのダンサーになるのと、どっちが難しいかしらね。まず私の方ね、間違いなく」
マリーは椅子を引いて座り直し、身を乗り出してきた。真面目な表情で、
「八月の入試目指して、頑張りなさい。今から猛特訓するのよ。もしかしたら受かるかもしれないし、受からないかもしれない。受かってもお金が工面できなくて、入学できないかもしれない。でも、高い目標に向けて頑張ったことは絶対無駄にはならないし、ロチェスに入ることだけがプロになる道じゃない。信じれば夢は叶うなんて甘いことは思わないけど、夢を叶えられるのは、夢を抱いた人間の中にしかいないのよ」
涙はいつしか止まっていたが、なぜか泣きたい気持ちは消えていなかった。
リアムは相手の顔から目を逸らすことなく、テーブルの下からおずおずと手を出した。その手をマリーはしっかりと握りしめた。
決意を固めたリアムは、スケートクラブのパスカルの元に一人で出かけた。
スケートをやめ、バレエに専念し八月のロチェスの入学試験を受けるためにこれから集中特訓するということを伝えると、パスカルはさすがに残念そうな様子だったがそれでもさっぱりとした微笑を浮かべた。
「そう、残念ね。マリーに連絡を取ってくれと頼まれた時には、そうじゃないかって半ば確信してたけど。だいぶ前からあなたは、スケートよりバレエに心が傾いてるように見えてたから。もしあなたがスケートを続けるなら、アイスダンスをやるといいんじゃないかって私は思ってたのよ」
コーチの言葉にリアムは少なからず驚いた。
フィギュア四種目の中で最も華麗と言われる競技を、地味な自分に勧めるつもりだったというのか。
「あなたはスケーティングが綺麗でエッジワークも丁寧で正確だし。表情を作るのは確かに苦手だけど、音楽を表現しようとする意欲はちゃんとあるし、何より小さい子たちへの面倒見がいいから、そういう協調性はダンスで女の子をサポートするのに向いてるんじゃないかと」
そこまで言って、パスカルは苦笑した。
「ああ、こんなこと言ったら未練にさせるわね。バレエにはシングルもペアも、アイスダンスもプレシジョン(シンクロナイズド・スケーティングの当時の名称。集団で滑ってマスゲームのような動きを見せるフィギュアスケート競技の一種)もあるんだから。自信を持ちなさい。あの広いリンクでたった一人で滑ることに比べれば、どんなことだって気は楽よ」
だが、パスカルの言葉の通りにはならなかった。
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