第6話 白銀を捨てて黄金に挑め

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 レッスンを重ねるうちに、リアムの中ではバレエへの情熱が加速度的に高まって行った。

 ただ姿勢の美しさを極めたい、もっと多くの舞台を観たいというのではない。

 自分もあの世界の一員になって踊りたい、舞台から観客席を見る側になりたいという思いだ。

 途方もない夢だった。始めた時期が遅すぎるし、何より貸し与えられたバレエ団の上演ビデオにはアジア系の出演者は一人もいなかった。しかし一度掻き立てられた炎は、どうしても消えてくれなかった。

 父の不在による欠落感によってかえって掻き立てられたのか、それとも苛酷な状況にも耐えて生き残ったものなのかは分からないが、生まれつき持っていたのであろう情熱が、ついにその方向性を定めたのだった。

 おそらく母親に託児所代わりに入れられた先がどこであろうと、リアムは指導者の言うことを素直に聞き、練習に取り組んだだろう。放り込まれたのがたまたまスケートクラブだったというだけのことだ。

 胸中にくすぶる小さな炎をなだめるために子供が苦手とするコンパルソリ練習にも地道に取り組んだけれども、ダンスや音楽を別途に学んでフィギュアスケーターとして向上しようという気にはならないでいた。マリー・ベルクールに「くるみ割り人形」のチケットをもらうまでは、そうだった。

 百花繚乱のバレエの世界が心に食い込んだリアムの目には、紙を敷いたようにだだっ広く何もない白い平原で、一人動き回るということがひどく味気ないものに見えるようになった。

 もちろん、世の中には偉大なスケーターという人々がいて、そういう人間たちの演技はまるで全幕物のバレエを見た後のような感動と満足感を観る者に与えられるということはリアムも知っていた。だが、そのようなスケーターになるために努力するというのは最早リアムにとってやりたいことではなくなっていた。

 とにかく、その時のリアムはもっともっとバレエがやりたくてたまらないようになっていた。

 週二回一時間半のレッスンだけではとても足りない。気持ちの問題以上に、プロのダンサーになるためにはとてもこの練習量では足りないということは子供心にもわかった。

 それでもリアムは相変わらずスケートクラブに通い、学校とバレエ教室に行く以外はすべてスケートに費やしていた。

 この年から初めてプロのバレエダンサーになどなれるはずがなく、それよりは三歳の頃から続けているスケートを自分の財産として大事にするべきだという思いがあった。そんなリアムにとって転機になったのは、同じバレエ教室に通う少女数名の存在だった。

 リアムと同じ小学六年生の彼女たちは教室の中でも特に優秀で、将来プロになることを公言していた。

 その彼女たちが、八月のロチェスバレエアカデミーの入学試験のための特別レッスンを受け始めたのだ。これから入試の日まで四ヶ月、まさにレッスン漬けの日々を送るのだろう。

 そのことを聞いてリアムの胸にはまず羨望が起こり、次いで一つの思いがこみ上げてきた。

 自分もロチェスバレエアカデミーを受験したい。

 経験が浅いならなおのこと、長い時間と濃厚な密度で容赦なくしごかれ、プロのダンサーとして活躍できるだけの技術を身につけさせてほしい。その思いは心からのものなのに、しかしそれを誰かに相談すると考えただけで身が竦む。

 母親や教師に相談できないリアムが頼ったのは、マリー・ベルクールだった。一九九一年四月、リアム・ブリュネは十二歳になっていた。

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