留雨

lampsprout

留雨

 ――勉強中に流していた曲が、耳の中で徐々にフェードアウトしていく。すっかり音楽の消えた重いヘッドホンを外し、私は確かめるようにカーテンを開けた。

 シャッ、という音と共に覗いた窓の外は、綺麗に晴れている。……今日だけではない、私の住む街はいつでも快晴だ。雨なんて滅多に降らない。


 もう一度眺めれば、雲ひとつない青空に、赤と緑の屋根がきらきらと映えている。旧びたレンガ造りの街並みは、今までほとんど雨に濡れたことがない。からりと乾いて、細かいラメのように日光を反射する。こんな景色はなかなか無いだろう、と身内贔屓を抜いてもそう思う。



 ――なのに、私の耳には絶えず雨音が聞こえる。

 カーテンを閉めてしまえば、常に驟雨の気分だ。つい先程まで、青空を眺めていたはずなのに。冷たい雨の中立ち竦んでいるかのような感覚。

 何てことない耳鳴りかもしれない。だけど、キンと響く金属音ではなく、確かに雨音がする。本格的に降っている、ざあざあという音。

 ……幻聴の類いが最も疑わしいけれど、私はこの音に心当たりがあった。



 ◇◇◇◇



 私には、一人だけ親友がいた。小学校から高校まで全て同じ場所に通い、平日も休日も一緒にいた。そして同じ大学に進学して、そこでも毎日会っていた。

 ……だけど、入学してから暫く経った頃、突然退学して旅行すると言い出した。それも、一人きりで連絡手段も出来るだけ断ったまま。どういうことかと聞いても、長い間夢なんだとしか答えてくれなかった。強く引き留めるわけにもいかず、私はそれきり口をつぐんでしまった。


 出発の日は霧雨の薄暗さに包まれて、未だ私は別れを惜しんだ。一方、雨だというのに彼女は晴れやかな表情だった。出航時刻が迫り、にこやかに笑って手を振る。


「さよなら、哀歌」


 おめでとう、いってらっしゃい。


 言うべき台本など、とうに解りきっていた。いつもなら、ただ筋書きをなぞるだけ。きっと文字なら、どうにでも誤魔化せたのだろう。

 ……なのに、この時は、喉がつかえて何も言えなかった。

 パニックで機能しない脳に、混濁した意識が必死に指示を出す。そんな状態で、正しい処理が出来るはずもなく。


「いかないで……」


 ――とうとう禁句を絞り出す私に、酷く哀しそうな顔をして。

 刹菜はそっと背を向けた。

 徐々に大きくなる雨音が、痛いほど収縮する心臓に染み込んでいく。


 笑って送り出すべきだった。

 引き留めるなんて間違っていた。

 絶対、言ってはいけない言葉だった。


 ――無慈悲な音が、後悔に堕ちる私を責めるように迫っていた。



 ◇◇◇◇



 ……最近、雨脚が強くなった気がする。

 何かが近づいているような胸騒ぎがする。



 ◇◇◇◇



 ……何かを切掛に、私以外を思い出すなら、どこにも行けなくていい。一生、檻の中でいい。永遠に雨に囚われていればいい。



 ◇◇◇◇



 転寝から覚めると、嘗てなく激しい雨音がした。ぞっとしてカーテンを引けば、有り得ない光景が広がっていた。

 私の美しい街並みがミルク色の霧に沈み、湿って一段低いトーンの色を帯びている。悪夢の名残のようだった。


 硬直する私を他所に、突如として着信音が耳をつんざいた。画面に表示された連絡先は、『刹菜』。

 私は咄嗟にスマホを掴み、家を飛び出した。



 雨に濡れて泥濘んだ道を走り、握り締めたスマホに向かって名前を呼んだ。息が上がり、心臓が怪しげな鼓動を打つ。まだあの日から何年と経っていないのに、随分老け込んだ気がする。堪らず立ち止まり、水滴の滴る髪の間から前を見る。

 ――そうして私は、降るはずの無い雨に身を打たれながら、朧げな彼女の幻影を視た。


「刹菜……!」


 びしょ濡れになって足がもつれ、道端へ無様に倒れ込む。もう顔が上がらない。

 擦り剥いた節々の痛みに襲われて浅い呼吸を繰り返し、私は意識を手放した。



 ◇◇◇◇



 ――瞼を開けるといつの間にか雨はあがり、暖かい木漏れ日が揺れている。刹菜は当然、どこにもいなかった。……遠い国にいる彼女が、こんなところに突然帰ってくる訳はない。着信があったはずのスマホの電源は完全に切れている。


 放心して起き上がる私の耳には、いつもと変わらず雨音が鳴り響いていた。



 ◇◇◇◇



 ――耳をすませば、今もあの日と同じ雨音が聞こえる。

 これからも、きっと、ずっと。

 淡い灯火が消え行く日まで。

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