「風」の段 6 しばしの別れと……
◇四月五日
「……ヨシ!」
翌朝、目を覚ましたモモは洗面所で顔を洗うと、パシリと自らの頬を叩いた。
山の湧き水を引いているらしく、丁度良い冷たさに肌が引き締まる。
時刻は午前5時、彼女にしては早すぎるとも言える時間だった。
「モモ~、準備できたニャ?」
「あっうん! 今行きます!」
寝間着から巫女装束に着替えたムギが玄関からモモに呼びかける。
ムギはいつも朝食の前に本殿を掃除しているとの事で、モモもそれに付き合う為だった。
といっても、モモに出来るのは簡単なほこり取りと、昨日と同じ掃き掃除だけだったが。
少し遅れたモモが靴を履いて玄関を出ると、ちょうど本殿の方から小井野が歩いてくるのが見えた。
「あれ、所長! どこ行ってたんですか?」
「起きたらいなかったから、心配しましたニャ」
まだ寝ているかもしれない、と二人がそっと寝室の扉を開けたのに、小井野の姿がないどころか布団が使われた形跡もなかったのだ。
「何も言わずに出てしまいすみません。昨夜はドラグラノスの所で飲んでいました」
「えっ小井野所長ってお酒飲むんですね……」
モモは小井野の全身を見つめたが、昨日と同じスーツ姿で顔色にも全く変化がない。
飲み会帰りとは思えない様子に、酒に弱いモモは少し羨ましいような気もした。
「ドラグラノス様は一緒じゃないニャ?」
「ああ、彼は飲み過ぎてしまったようで、まだ寝ていると思います」
「そうなのニャ? ドラグラノス様がそんなに飲むの、珍しいニャ」
「私の我儘に付き合わせてしまいまして、すみません」
「謝らなくていいですニャ! モモ、後でお水届けに行こ、ニャ」
「うん、それはいいですけど……」
昨日の掃除の後から何かと一緒に行動したがるムギが可愛らしかったが、モモはやはり小井野の事を少し不気味に感じてしまう。
もしかして、アリシアの炎と同じように酒を次から次に吸収していたのでは、と情緒の欠片もない想像をしてしまい、彼女はそんな考えを払うかのように頭を振った。
―――――――――――
本殿の掃除の後、モモが腕によりをかけた朝食も食べ終え、三人はしばし暇をしていた。
モモとムギは、何故かモモが持ってきていたトランプで遊び、小井野は何やら難しそうな本を読んでいた。
やる事も特になかったが、電車が来る時間までまだ余裕があった為だ。
先程モモとムギがドラグラノスに水を届けに行ったところ、もう少し寝たいと告げられた為でもある。
ドラグラノスは見るからに元気がなく、この見上げるほどの巨体を持つ竜が酔う程の酒に、モモは恐れをなした。
彼の寝床に食料は置いておらず、酒は祭事の時に飲むのみだというムギの証言から、恐らく小井野が酒を持ってきていたのだろう。
以前から小井野はひょいひょいと体に収納した物を取り出すが、そのラインナップはどこから調達しているのだろうか、モモには彼に直接聞く勇気がなかった。
しかし日が昇りきる前にドラグラノスは降りてきて、ついにモモと小井野は神社を発つ時が来た。
「今回は本当にありがとうございました! 今度はアリシアさんと一緒に来ますね!」
モモは隣にスーツケースを携え、深く礼をすると、自分が少し泣きそうになっている事に気づいた。
入社三日目にして初めての出張で、モモも自分が思っていた以上に緊張し、消耗していたらしい。
実際にはドラグラノスともムギとも良好な関係を築けたし、成果も十分だ。
無事に目標を達成できそうな安心感からか、モモは少し気が緩んだらしい。
それに気づいてか、気づかないでか、ドラグラノスは昨日のように鷹揚に頷いて見せる。
「「「ああ。わしも楽しみにしておるぞ」」」
「ドラグラノス、私からもよろしくお願いします」
「「「お前によろしくされなくとも、分かっておる」」」
しかし何故か先程から、ドラグラノスの小井野に対する態度が硬変している。
一方の小井野はいつも通りで、むしろ昨日よりも機嫌が良さそうに見えた。
モモが生まれる遥か前から関係があったそうだが、そんな長い期間を生きた事もない彼女は、自分には理解できない事情もあるだろうと、あまり深く考えない事にする。
「「「そうじゃ。渡会モモよ」」」
「はい、なんでしょうか」
小井野ににらみを利かせていたドラグラノスだったが、ふと思い出したようにモモへ声をかける。
「「「こいつに何かされたらすぐわしに言うといい。少しくらい匿ってやる事はできるだろう」」」
「おや、酷いですねドラグラノス。私が渡会君に何かするとでも?」
こいつ、とドラグラノスは小井野を指さすが、この竜から見て小井野は余程信用ならないらしい。
しかし急な訪問を快く受け入れてくれた事もあり、二人の関係については謎が深まるばかりだ。
「はは、覚えておきます……」
「あたしもいるからニャ! また遊びに来るニャ!」
そんな二人に少し苦笑い気味になりつつ、ドラグラノスの申し出は正直にありがたかった。
ムギはその辺りの事はあまり気にしていないようで、無邪気にモモの手を取り、ブンブンと振る。
モモはまるで妹が出来たような気分で、今月中と言わずまたすぐにでも会いに来たい、と思うくらいにはムギの事が好きになっていた。
「では行きましょうか、渡会君」
「あっそうですね、電車の時間が……」
一つ電車を逃すと、次は一時間後になってしまう為、そろそろ出発しなければならなかった。
モモにとって、この神社で過ごしたのはたったの一晩であったが、それでも別れがたい。
しかしそれだけ、素敵な出会いがあったという事だ。
「あたしが先導するニャ」
行きと同じように、ムギが赤い和傘を差した。
もう一度、本殿の前に立つドラグラノスを振り返ると、モモは頭を下げる。
ドラグラノスが満足そうに頷いたのを見て、モモは鳥居をくぐった。
最後に暖かな祝福の追い風が彼らの背を撫で、モモと小井野は山を下りる。
こうして、モモの初めての出張__「
――――――――――――
四月五日午後13時過ぎ、IRKエージェントの本社所在地であり事務所の入った雑居ビルに、一人の来訪者があった。
彼とも彼女とも言い切れない背格好の人物は、シルクハットに燕尾服、白い
その翼をはためかせ、その人物は大胆にも四階の窓からビル内に侵入する。
周囲を確認するが、窓が空いていたにも関わらず室内には誰もいなかった。
質の良いアンティーク家具で纏められた部屋に、紅茶の残り香があるのみだ。
侵入したその人物は、窓側の机に腰掛けるといずれ戻ってくるであろう部屋の主を待つ。
「おや、驚きました。まさか少し席を立った間に何者かが侵入しているとは」
ギイ、と扉を鳴らして入室したのはこの事務所の主、小井野であった。
科白の割にはその声は平坦で、不法侵入者に対して通報するでも、追い出そうとするでもなく。彼は後ろ手に扉を閉めると、自ら侵入者と二人きりになった。
そしてツカツカと侵入者の座る机に近づくと、その机とセットになっている革張りの椅子に腰かける。
「……どうやら、この登場の仕方にはもはや驚きを感じてもらえないようだ」
小井野が新聞を取り出したところで、侵入者は口を開いた。
侵入者は足を組み小井野の方を向くと、彼から新聞を取り上げる。
「驚いたと言ったではありませんか」
「何言ってるんだい大根役者。『驚いた』と口で繕っただけで、キミの心は驚いてはいないじゃないか」
新聞を丸めて台本に見立てると、侵入者は小井野の頭を軽く叩く。
侵入者の言葉に、小井野は先程の自らの行動を反芻するが、確かに「驚いた」と言ったのはこのシチュエーションに適切なフレーズだと判断したからだ。
心が驚いていたかどうかについて、彼は正確に判断する機構を持っていなかった。
「どうやら、私には心が無いようですよ」
小井野は昨晩、竜の友人に言われた事を思い出し、しかし何故そう言われたのかは理解できないままだった。
彼の事を古くから知る侵入者の目には、小井野が少し落ち込んでいるように見えた。
語り口こそ淡々としているが、彼のルーティーンの一部である新聞を取り返さない事がその証左だ。
「まあ、君の成り立ちをすれば怪しくはある。しかしボクは、だからこそキミを驚かせてやりたい」
丸めた新聞で小井野の顔を上向かせると、侵入者は小井野の真黒な瞳と視線を交わす。
面の奥で、緋色の瞳が輝いた。
「これが『顎クイ』ですか。参考になります」
「……キミ、流石にそれは態とだろ」
「確かに存在は知っていましたが、自分がされたのは初めてです」
このスライムが嘘は吐かない事を侵入者も知っていたが、だからこそ彼のある意味天然な言動に困らされる事もある。
調子を狂わされた侵入者は、すぐに飽きたのか新聞を小井野に返還した。
そうして立ち上がると、今度は以前見なかった新しい事務机の方を物色し始めた。
「ああ、Mr.プレゼント。そちらの机は渡会君のものですので、あまり触らないであげてください」
Mr.プレゼントと呼ばれた侵入者は、小井野の言葉を無視して机の引き出しを開ける。
中にはあまり物はなく、数枚のプリントが入っているだけだ。
「そうだよ。渡会君だよ、渡会モモ! ボクは今日、彼女に会いに来たのさ」
そう言う間も、今度は後ろに増えていた本棚と、物色の手は止まらない。
そしてあちこちに、彼は赤い箱を仕掛けていった。
彼が心から愛する、とびきりのプレゼントのために。
「渡会君なら、今日は事務所に来ませんよ」
「……エ゛」
小井野の言葉に振り返ったMr.プレゼントは、驚きのあまり仕掛けの導火線を引いてしまった。
チクタク、チクタクと時計の音が辺りに鳴り響き、数秒後。
彼の仕掛けた赤い箱から、一斉に黒い鳩が飛び出る。
バサバサ、バサバサバサ、と複数の羽音は混乱したように部屋の中を飛び回るが、やがて窓が開いているのを見つけると、そこから我先にと飛び立っていく。
「ああ~! せっかく準備したのに……! キミたち、ご飯抜きにしちゃうからな~!!」
Mr.プレゼントは慌てて窓に駆け寄ると、羽ばたく鳩たちに向かって叫んだ。
すると幾羽かは戻ってきて、餌をねだるように彼の腕にすりつく。
鳩たちの現金さに呆れながらも、仕方なく彼は胸ポケットから餌の入った袋を取り出した。
「最悪だよ、小井野。渡会モモは来ない上に、ボクの烏たちまでご覧の有様だ」
「鳩では?」
「ボクが烏と言ったら烏だい!」
先程までの紳士然とした振る舞いはどこへやら。
彼は緋色の瞳を涙で滲ませ、鳩に餌をやる作業を続けた。
「それで、このボクを置いて渡会モモはどこへ行ってるんだ」
「ドラグラノスの所へ出張です。津雲辻へは今日帰ってきますが、事務所には寄らず直帰するよう言ってあります」
「ふうん。あんな辺鄙な場所までご苦労な事だが、ボクが来たのだから事務所に来させればいい」
「それは貴方でも許可できません。そもそも、貴方への訪問予定は九日のはずですが」
今日は自分の思い通りに行かない事が多く、Mr.プレゼントは少々苛立っていた。
苛立ってはいるが、彼の脳内は次のプレゼントの計画に既に移り変わっている。
餌の袋を空にしてしまい、鳩にあちこちをつつかれながら、彼は言う。
「そんなの、道理は一つに決まってる。あえて違う日に来た方が、驚きが増すだろう?」
面の奥の目を細め、口角を歪める彼の表情は、おおよそ常人とは言えなかった。
「人を驚かせる」事に執着しすぎた、リストの「変人」枠にして、モモが二件目の訪問先に選んだ人物、Mr.プレゼントは次のターゲットを渡会モモに設定していた。
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