「風」の段 5 友人と飲み会

 ◇四月五日


「あたしたち一緒に寝るから、小井野様はリビング使ってくださいですニャ」

「そういう訳で所長! おやすみなさ~い!」


 境内の掃除の後、急激に距離が近づいたムギとモモの二人は、そういって奥の寝室に連れ立った。

 しばらくヒソヒソと話し声が聞こえたが、今はそれも止み、辺りは静寂に包まれている。

 小井野は、ちゃぶ台を除けて作ったスペースに敷かれた布団に座し、時が経つのを待っていた。

 モモかムギが手洗いに立っていたら、その光景にさぞ驚いた事だろう。

 しかし小井野は基本的に、外出中の分体は睡眠させない。

 どこかの別の分体が休息を取っていれば、また別の分体は活動し続ける事が出来る、便利な体だ。

 やがて、不用心にも開け放たれたままの窓から、月が雲間に顔を出したのを確認する。

 ようやく彼は動き出した。


――――――――――――


 小井野の行先は、本殿の北側に位置するドラグラノスの寝床だ。

 山が抉れたような形の巨大な空間が、不思議な力で保たれている。

 10m級ドラゴンのドラグラノスが、もう一頭くらいは余裕で生活できそうな広さだった。

 普段、ドラグラノスはムギが眠った後、この寝床に帰って睡眠をとる。

 しかし今日はその限りではなかった。


「どうです。月見酒でも」


 小井野が片手に持った一升瓶を持ち上げて声を掛けると、僅かに何かが蠢く気配がある。

 月の光が届かない闇の中に、唯一ドラグラノスの紫の瞳が浮かんでいた。

 その瞳は今、少なくともムギに向ける愛情の色が無いのは確かだった。


「『根の国』。津雲辻の銘酒です」


 小井野がその酒のラベルを読み上げた時、彼の頬を鋭い風が切り裂いた。

 しかし小井野は一瞬の斬撃に対して眉を動かす事もせず、いつも通りの笑みを浮かべている。

 確かに裂かれたと思われた頬は、血の痕跡もなく塞がっていった。


「貴様、相変わらず懲りないな。そういう所は心底好かん」

「懲りないだなんて心外です。誠心誠意、貴方のために選んだのですが」

「ハッ、笑わせる。貴様に心など無かろう。じゃからそんな物を持ってこれる」


 昼間とは違い、ドラグラノスは声を顰めていた。

 声はひたすら冷たく、無駄がない。

 チョイスを間違えたらしいと認めた小井野は、どこかにその一升瓶をしまった。


「ドラグラノスは、随分変わりましたね。よほどムギ様が大事と見える」

「あの子に手を出してみろ。貴様の存在を消してやる事など容易いぞ」

「とんでもない。私に彼女を害する意思などごさまいませんよ」


 小井野にその気がないのは、ドラグラノスもよく知っている。

 一つため息をつくと、ドラグラノスは暗闇から顔を出した。


「それで、何しに来た」

「久しぶりに会ったのですから、こういう時は一晩飲み明かすものだと判断しまして」

「……仕方ない。付き合ってやる」


 こういう時、小井野を否定しても付きまとわられて厄介な事になるのを、ドラグラノスは経験則で知っている。

 小井野は新しく別の酒を取り出すと、二つの盃に注ぐ。


「乾杯」


 あまり楽しくはなさそうなドラグラノスの音頭で、二人は酒に口を付ける。

 彼用の大盃を一口で呷ると、「友人との飲み」にご機嫌な小井野を睨んだ。


「……それで、今回はどこから仕組んでおる」

「仕組んでいる訳ではありません。私は会員の皆様の幸せの為、出来る事は何でもする。それだけです」

「ならばなぜ、兄者の生まれ変わりをわしが面倒見る事になっておる」

「それはあなたが承諾したからですよ」

「そういう問題ではない」


 その瞳に昼間のような寛大さはなく、刺々しい殺気を放っている。

 そんなドラグラノスを恐れ、辺り一帯の動物らは息を潜めていた。


「……なんにせよ、わしはお前の手によって選らばされている事に違いない」

「不都合はないでしょう。お兄様の生まれ変わりとまみえる事が出来て、貴方も喜ばしいのでは?」


 事実、小井野の言葉の通りだった。

 兄弟の中で唯一早死にした一番上の兄への想いは、まだドラグラノスの中に燻っている。

 もはや記憶すら薄れるだけと思っていた所に、兄と同じ瞳を持つ者が現れたのだ。

 嬉しくないはずはなかった。

 しかしそれが小井野の計画によるものという事が、ドラグラノスを苛立たせる。


「まさか、ドラゴニア家がこちらへ移り住んでいたとはな」

「かつての王族の事情も、今のドラゴニア様には関係ありませんから」

「……そうだな」


 ドラグラノスは、小井野がいう「ドラゴニア」が誰なのか測りかねた。

 小井野の行動の全貌を把握する事はもはや本人以外には不可能だったが、自らの同族までもその手の内にある事をみすみす放っておくわけにはいかない。

 モモの頼みを了承したのは、そういう理由もあった。

 そして竜には、いざとなれば小井野を排除できる自信がある。

 しかし、不気味ではあるが直接的な害はない事から、彼は小井野と「友人になる」選択をしていた。


「移り住んだと言えば、貴方も同じでしたね。ここの祭主も、以前より随分板についている」

「わしはもう、こちらで過ごした時間の方が長い。あちらの故郷に戻る事も、もうないだろう」

「そうですか。お姉様が、『末弟がいつまで経っても帰ってこない』と悲しんでおられましたよ」

「どこまで手を伸ばしておるのだお前は……」


 ドラグラノスは自身の数少ない弱点を出されて、分かりやすく顔を顰める。

 この竜は、何故か周囲の女性には頗る弱かった。


「姉者の話はもうよい。それより、お前が部下を持つとは意外だったぞ」

「渡会君の事ですか」

「そうだ。お前こそ、随分な入れ込みようではないか」


 ドラグラノスの記憶では、目の前のスライムほど団体行動が苦手なモノは他にいない。

 あまりに便利すぎる体を持つが故に、他の助けを必要とせず、何でも一人でこなしてしまう。

 そして絶望的に、他人の気持ちを計るのが不得意であった。

 数十年前、ドラグラノスはこのスライムが結婚相談所を作るという話を聞いた時、下手な冗談だと思っていた。

 実際には上手く軌道に乗せたようだが、竜はそれが統計と分析による研究の成果だと知っている。

 研究は決して悪い事ではないが、小井野自身には他人の気持ちに共感する力が備わっていないのは、先のやりとりからしても確かだった。


「彼女は部下ではありません。新しい仲間です」

「なんじゃその気持ち悪い言い方は」


 ドラグラノスが知る限りこのスライムは数百年単位で生きているはずだが、今まではこんな生臭い事をいう者ではなかった。


「彼女にはいずれ、私の右腕になっていただくつもりです」

「……そうか」


 竜は、これから先も困難な道が待ち受けているであろう娘の事を哀れんだ。

 しかし、このスライムがターゲットにした以上、そう簡単に逃げる事も隠れる事もできないだろう。

 モモに対して何もできない事を知るドラグラノスは、空になった盃を端に退かすと、体を丸める。


「わしはもう寝るぞ」

「おや、連れないですね。酒ならいくらでもありますのに」

「…………」


 ドラグラノスが寝る体制に入っても、小井野がここを去る気配はない。

 それどころか、更に酒の入った瓶を取り出している。

 自分が寝ている所を肴に酒を飲まれるのも癪に感じたドラグラノスは、仕方なく再び体を起こした。


「お互い、そんなに話す事もなかろう。何に拘っておる」

「おかしいですね。友人との飲み会は夜を徹するのが通だと、以前読んだ雑誌に書いてあったのですが」

「どんな雑誌じゃ……」


 おかしな言い分にドラグラノスは頭を抱えたかったが、首の長さに対して腕が短いので出来なかった。

 そんな竜とスライムの剣呑な飲み会は、ダラダラと朝まで続いた。


 ――――――――――――

 ◇四月四日


 時は遡り、小井野が「飲み会」の為に社務所を発つ前。

 二組の布団をくっ付けたモモとムギは、消灯してもまだ話足りないようだった。


「そういえば、モモはなんで小井野様の結婚相談所に入ったんだニャ?」

「聞いちゃいますか? これにはふか~い涙の訳がありまして……」


 津雲辻という大きな街、そこに住む様々な命、そしてモモの数奇な体験談は、山奥で暮らすムギにとって何よりも刺激的だった。

 街灯もないこの場所では、月が隠れてしまえば明かりはなく、屋内は特に真っ暗になってしまう。

 それでも、モモの語りはムギの視界を鮮やかに色づけた。


「もうほんと、小井野所長に拾われなかったら私、どうなってたか……」

「その前の会社、明らか怪しいニャ。やっぱりモモはちょっとバカ、ニャ」

「えー? ひどいなぁ」


 モモは少し泣きそうな声真似をしたが、やはり口元は笑っていた。

 そんな声を潜めた二人の笑い声は、すぐ夜の闇に消えてしまう。

 気を抜けばすぐ眠ってしまいそうな時間、一秒が引き伸ばされるような感覚を、モモの声が打ち破った。


「……でも、確かに内定出たのそこだけだったから、それに縋りついちゃってましたけど。結婚相談所っていうのが、いいなぁって思ったのは本当なんです」

「……なんでニャ?」

「私、今まで全然恋愛とかしてこなかったんですよ。ムギは好きな人とかいます?」

「まだ、よくわかんないニャ……」


 眠気で、なんでそんな質問に飛んだのか考える余裕がムギにはなかったが、だからこそ正直な答えだった。

 ドラグラノスの事は好きだが、恋愛感情かと言われると違う。

 そして他に思い浮かぶ人もムギにはいなかった。


「そっか。でも、私の両親がね、すごく仲が良かったから。そんな夫婦になるかもしれない、素敵な出会いを支える仕事が出来たらな~って、あの会社の求人を見て思ったんです」

「うん……いいこと、ニャね……」


 段々と発言が舌足らずになってきたムギは、ついに寝てしまったようだった。

 やがて小さな寝息だけが聞こえてくる。

 モモはムギの布団を掛け直してやると、寝返りを打ってムギに背を向けた。


(話してもいいのかなって思ったけど、寝ちゃったならしょうがないよね)


 モモは、夕方の掃除中にムギにかけた言葉を思い出す。

 あの言葉の中にほんの少しの嘘と誤魔化しを混ぜてしまった事を、彼女は後悔していた。


(お母さんとお父さん……二人が心中してからもう二年経つのか)


 忘れもしない、彼女の二十歳の誕生日の事だった。

 あの日の事を思い出すと、モモは未だに胸が痛くなる。

 彼女の両親は、その日彼女だけを残して死んだ。

 サークルの旅行から帰ると、家も思い出も全て焼かれていて、モモだけが残された。

 黒くなった家を目にした時の絶望が、彼女には今でも鮮明に思い出せる。


 大好きな家族だった。

 それこそ、モモもムギと同じように写真を大切にしていて、家は思い出に溢れていた。

 しかしそんな思い出は、他ならぬ両親によって、諸共燃やされのだ。


(なんで……)


 モモには遺言すらなかった。

 何故二人が心中したのか、誰にも分からなかった。

 夫婦仲は良すぎる程良好で、金銭トラブルもなく、ご近所付き合いも評判が良かった。

 最初は心中だったという事を受け入れられなくて、泣いた。

 あの日に来ていた服を久しぶりに持ち出したからだろうか、今またその続きの涙が流れている。

 モモはもう両親に甘えられる年ではない。

 しかしどうしても、ふと寂しくなる時が時々あった。


(……でも、もうどうにもならない。前に進むしかない)


 彼女は一度目をこすると、布団を頭まで被った。


 そうして、朝がやってくる。

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