あわれなるもの

 それ以来、乙女は姿を見せなくなりましたが、青年はそれでも日々の務めをこなし続けました。隠者の話を聞いて青年は大いに反省し、それまでの行いを改めることを誓いました。願わくは、彼の良き変化を認めた乙女がもう一度現れてくれるようにと心の隅で念じながら、彼は祠の前にぬかずいて祈り、羊たちを連れて緑の野を歩きました。



 そんな日々が何日も続きました。乙女は相変わらず現れませんでしたが、ある日ついに彼はそれどころではなくなります。というのも、彼が経験した中でも格別にひどい嵐が彼の住む丘陵地帯を襲ったのです。

 大雨が川を溢れさせ、暴風が木々をなぎ倒し、屋根を剥がしては逃げ惑う人々の頭上に落としていきます。青年の住まいと羊の囲いがある場所はどこよりも先に水浸しになりました。彼は祠にも行かず、羊たちを連れてこのあたりで一番高い丘を目指していました。羊たちに草を食ませに何度か登った丘の上へと、青年は暴風雨の中、慣れない道を急いでいました――折り重なって倒れた木々がいつもの道をふさいでしまい、彼らは別の道を使わざるを得なかったのです。

 怯える羊たちを引き連れて、青年は果敢に滑る丘を登りました。彼はいつも首から下げているメダルを握りしめ、必死に祈りました。


 神様、どうか僕と僕の羊たちが無事に嵐を乗り切れますように。

 僕の羊たちが、一頭も欠けることなく家に帰れますように。

 神様、どうか。どうか、羊たちを無事に家に帰してください。羊たちを守ってください。どうか、僕と僕の羊たちを――


 そのメダルには、祠にあるのと同じ印が刻まれています。偶然拾ったメダルでしたが、神が信仰の証として彼に贈ってくれたのだと青年は信じていました。このメダルに祈れば、必ずや神が応えてくれるはずだと青年は信じていました。最も、今ではあの不敬の日々への罪悪感が少なからず含まれていたのですが。

 そして、天の意向はときに残酷に人の身に襲いかかります。

 必死に祈る青年が聞いたのは頼もしい神の声ではなく、化け物が唸っているような地響きでした。足を止め、何事かとあたりを見回した青年の目に入ったのは、斜面の上から押し寄せる茶色い塊でした。青年は叫び声をあげ、羊たちを先導して斜面を降りようとしましたが、十歩も行かないうちに茶色い塊が彼らに追いついて、木々や石ころと一緒くたに丘の下へと押し流してしまいました。




***




 一晩中泣き腫らした子どもが翌朝けろっとしているような具合に、嵐が去った空は一転して青く澄み切ってました。人々は互いに無事を確かめ合い、傷ついた仲間をひとところに集め、壊れた家を直しました。土砂に流された青年と羊たちは通りすがりの村人に見つけられ、助け出されて村に連れてこられました。青年の連れていた羊はどれもどろどろに汚れていましたが、一頭の欠けもないどころか怪我さえなく、きれいに洗われてから村の羊とともに囲いに入れられました。


 さらに日が経つと、近隣の村や街の消息が丘を越えて伝わりだしました。建物は壊れ、怪我人が出たものの、どの場所でも死んだ人はいないとの知らせは村人たちを安堵させました。

 しかし同時に、村人たちは、村の集会所の隅に横たわる青年のことを思って悲しまずにはいられませんでした。というのも、青年は助けられはしましたが、土砂に目を潰され、片脚を折られ、高熱を出して臥せっていたのです。痛みと熱に浮かされる中、青年はひたすら神に祈り続けていました。それはうわ言のようでもあり、悲惨な運命に抗う叫びのようでもありました。

 嵐から一週間後、青年はようやく熱が下がって話ができるようになりました。青年は横たわったまま、両目を覆う布に触ってこれは何かと尋ねました。この布のせいで、目を開けているのに青年の視界は真っ暗でした――しかし、看病に当たっていた村人が教えてくれたのは、彼の視界が暗いのは布のせいではなく、彼が土砂崩れに巻き込まれて目を潰されたせいだということでした。のどにものがつかえたような声音で、青年はその村人が泣いていることを察しました。青年は助けてくれたこと、介抱してくれていることに改めて礼を言うと、目のことは仕方がないからどうか悲しまないでほしいと伝えました。

 そして、村人が去ると、青年はこの暗闇について一人で考えました。そして、これはきっと罰なんだ、悩みごとにふけって務めをおろそかにしたこと、神様への思いを他へ移してしまったことへの罰として光を奪われたんだと結論付けたのです。青年は一人頷きました。両目はなくとも、彼は生きています。生きていれば祈りを捧げることはできますし、そのための声も奪われていません。青年は手探りで首のメダルを握りしめると、神に感謝を捧げました。そしてこの暗闇を受け入れ、神の望むままに生きることを誓いました。




 嵐から三月みつきがたちましたが、青年は変わらず村にとどまっていました。というのも、彼は折れた脚を再び動かすことができなかったのです。骨は元通りについたので、真っ直ぐ立つことはできました。ですがその実、癒えた脚は棒のように突っ張ったまま、持ち主の言うことを聞かなくなっていたのです。村人たちは青年をいたく憐み、村の一画に彼の住処を移しました。彼の羊たちは村の羊飼いが続けて面倒を見ることになりました。この体では羊飼いの仕事は続けられないと誰もが思っていました。



 ある日、青年は一人で羊の囲いのあたりを散歩していました。杖をつき、聞きなれた鳴き声と突き出した手に触れるものを頼りに囲いの柵にたどりつくと、青年は彼の羊の名を一匹一匹呼びました。羊たちは、かつての飼い主のことをちゃんと覚えていました――伸ばした手に押し寄せるふかふかの塊と、暗闇を埋め尽くさんと響き渡る懐かしい鳴き声に、青年は胸がいっぱいになりました。潰れた目から涙があふれるのを彼は止められませんでした。

「ああ神様、ありがとうございます! あなたは何と心の広い方なんでしょう! 僕は一度あなたを離れたというのに、あなたは僕を助けてくださいました。羊たちを生かしてくださっただけでなく、不敬なるこの身をも助けてくださいました。この身の不幸が何だというのでしょう。あなたに生かされたこと、これ以上の幸せがこの世にあるでしょうか!」

 地面に崩れ落ちて彼は泣きじゃくりました。このときほど今までの行いを恥じたことはありませんでした。彼は悩みごとに囚われていた日々を恥じました。乙女に夢中になっていた日々を恥じました。神に全てを捧げることこそが己の生きる道なのに、そのことを一度ならず忘れた己をいたく反省しました。


 ふと、何者かが地面に落ちた杖を取り上げました。その音で青年は涙にぬれた顔を上げ、そこで初めて右腕の側に人の気配を感じました。

 その気配は村人のものではありませんでした。隠者のおじいさんのものでも、かつて惑わされた乙女のものでもありませんでした。ただこの羊たちと同じように、彼はこの気配をよく知っていました。青年は気配の方に顔を向けて、あなたはだれですかと問いました。

「私は何者でもない」

 とその人は答えました。深みのある男の声でした。

「泣くのをやめ、杖を取って私に従え」

 青年はローブの袖で、涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭いました。男は涙でびしょ濡れの目隠しを取ると、新しい布を巻いてくれました――一瞬、眼前の暗闇に明るさが戻り、世界がぱっと広がりました。それはすぐに閉ざされましたが、青年の目に布を巻く男の手つきは実に優しいものでした。



 男は青年に自身の腕を持たせると、彼を連れて村の外へと向かいました。足を引きずって歩く青年に合わせて、男は一歩一歩、ゆっくりと歩いていきます。下草が布靴をくすぐる感触、風のまとう緑の匂い、引きずる足のつま先が土をえぐる感触、梢が揺れる音、下草が揺れる音、鳥たちのさえずり、少し前を歩く男の気配、全てが一丸となって青年に襲いかかります。久しぶりの外の世界を青年は存分に受け止めました。視界を絶たれてもなお、それは青年にとって鮮明で明るく楽しげな世界でした。

 男は何も言わずに歩き続け、ある場所で足を止めました。男に促されるままに膝をつき、手を前に伸ばすと、そこには積み上げられた石がありました。

 青年は杖を手放して、夢中でその石を撫でまわしました。小さな家のように積み上げられた石、入り口にはアーチが作られ、そのてっぺんには何やらうねる紋様が刻まれています。青年はハッとして手を引くと、その場に深々とぬかずきました――それはまさしく、彼がずっと行けずにいた祠だったのです。

 青年が長い祈りを終えると、男は青年を連れて丘をゆっくり一周しました。男は最後に青年を村まで導くと、新しい住まいの一番奥にあるベッドに座らせました。

「明日の朝、日の出の頃に迎えに来る」

 男はそう言い残して去っていきました。

 そして翌朝、その言葉のとおりに男は青年の家にやって来たのです。

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