“H”の愛と幸せの定め

故水小辰

さまよえるもの

 むかしむかしのお話です。どこまでも草原の続く美しい丘陵地帯に、小さな祠がありました。

 祠と言っても、大きめの石を積み上げただけのいたって簡単なものです。それでも家のような形はしていて、奥には縦長の石が丁寧に収められており、入り口のアーチのてっぺんにはうねうねとした紋様が彫られていました。いつ、誰がそれを造ったのか、また何の神がまつられているのか、近くの村に住む者は誰ひとり知りませんでした。とはいえ、何かがまつられているらしいことは見て分かりましたので、皆それを祠として認識していたのでした。

 この石の祠が祠と認められているのには、もう一つ理由がありました――それはこの村の近くに住む羊飼いの青年です。彼は毎朝、羊を連れて野に出る前に必ずこの祠に立ち寄りました。そうして、朝露に濡れた草にぬかずいて色々なことをお祈りするのが彼の日課でした。


 神様、また朝日を見させてくださったことに感謝します。

 今日も一日、何事もなく過ごせますように。

 羊たちが狼に襲われることなく、無事に過ごせますように。

 今日は夕方に村に行きます。元気なみんなに会えるよう、村のみんなも見守っていてください。


 などなど、などなど――青年は色々なことをお祈りしてから、羊たちを連れて緑の丘へと歩いていくのでした。


 青年は心優しく、いつも自分より羊たちや村の人々のことを気にかけていました。ときには会ったこともない人たちのために、彼は祠にぬかずきました。たとえば、この辺り一帯がひどい大雨に襲われたときのこと。羊たちを連れ、他よりいっとう高い丘の上に逃げていた青年は、ずぶ濡れになりながらも膝を折って神に祈りました。


 神様、どうか、街の人たちを洪水から救ってください。丘の向こうに住むあの人たちには高台まで逃げるすべがないのです。僕と僕の羊たちを無事に逃がしてくれたように、あの人たちのことも逃がしてあげてください。


 神は敬虔な青年を気に入っていましたので、彼の祈りに応えました。雨がやんで何日か経ち、近隣の街や村の無事が風に乗って伝わってくると、青年は子ウサギのように駆けてきて、涙ながらに祠に向かって何度も頭を下げ、何度も礼を言いました。神はそんな青年を見て、自分までような気分になりました。神に感情はありません。ですが青年の行為がと呼ばれるものであること、人間の感情は伝播するものであることを神は分かっていたので、祈りが届いたと歓喜し、むせび泣く青年を見ていると、彼の喜びが自分にも伝わってくるような気がするのでした。



 しかし、あるときから青年はぱったり祠を訪れなくなりました。神は青年を観察し、時折ふらりとやって来ては祈っていく内容に耳を傾けました。村や街に行ったときの様子にも目を向けました。

 どうやら彼は、あることに悩むあまり、今までの純粋さを忘れてしまったようでした。彼の頭を埋めていたのは、自身に来たるべき運命のこと――羊たちにも、村の人々にも、彼の知る全てに等しく訪れる、地面に倒れたきり動かなくなるその日、その瞬間のことでした。彼はその日が来るまでに何をするべきかをうつうつと考えていたのです。

 青年は、喜びとあどけなさの消え去った陰鬱な顔で、毎朝考え事をしながら羊を連れて村を出ました。羊が群れを離れても、病気になっても、青年は眉をひそめてうつむくばかりです。そうして一頭、また一頭とやせ細り、地面に倒れて動かなくなると、ほがらかだった青年の目元はより一層暗くなっていくのでした。



 神は、かつて青年の暮らしの全てでした。青年は、神に祈りを捧げ、神から与えられた羊を追う仕事と暮らしに疑問を抱いたことなどありません。それで彼は十分幸せでしたし、神もそんな彼を気に入っていました。それなのに、なんてことのないちっぽけな悩みによってせっかくの幸福がこうも容易く崩されてしまうとは。明るく喜びに満ちていた彼の世界が暗澹たるものに豹変してしまうとは。

 神は、その長い長い時間の中で、初めて何かを取り戻したいと思いました。

 そして、青年に喜びに満ちた世界を思い出させるために、初めて人の姿を取ったのです。




***




 悩める日々が続いた末、青年はついにあることを決意しました。

「僕はもう、分からない未来について神様に知恵をねだったりはしない。僕は僕の務めを果たす、もしそれで悪いことが起きたらそれはそっちのせいだ!」

 彼がそう宣言した途端、ふいにあたりが明るくなりました。彼は雲の間からお日さまが顔をだしたのかと思って空を見上げましたが、そうではありませんでした。


 彼の目の前に、ひとりの乙女がいました。ああ、その輝かしさと甘美さといったら! あたりを照らしていたのは彼女でした。その輝きの前にはどんな花もしぼみ、太陽さえも顔を隠しました。その麗しい瞳は澄んだ泉と見まごうほどのうるおいをたたえ、その唇はこの世の何物よりもみずみずしくつややかです。思わずぬかずいた青年に、乙女は語りかけました。その声は天上の楽の音の如く、朝露に濡れたベリーのようにみずみずしい唇に囲まれた聖なる空洞から甘い乳の如く流れ出ました。

「迷えるお人、頭を上げてこちらにおいでなさい! 私はあなたが崇めるべきものではありませんが、あなたが務めを果たすならば、またその心の誠を忘れぬと誓うなら、我が身は常にあなたの隣にありましょう」

 青年はその言葉につられるように顔を上げ、ぽうっとして乙女を見つめました。これほどまでに甘く、全身に染みわたる言葉が未だかつてあったでしょうか。青年は夢遊病者のようにふらりと立ち上がり、乙女の手を握りしめました。

「ああ美しい方、あなたは名を何と言うのですか? どこから来たのか、なぜここに来たのか、僕に教えてはくれませんか?」

 しかし、青年がそう問うた瞬間、世界はもとの薄暗がりに戻されました。乙女の姿は消え、代わりにこだまのような声が風に乗って聞こえてきました。

「ああ、無垢なるお人、決してそれをお尋ねになりませんよう! あなたはただ、与えられた務めのことだけを考え、それにはげめばよいのです。さすれば私はいつまでもあなたのおそばにいるでしょう!」

 青年は乙女の姿を必死になって探しましたが、ついに見つけることができませんでした。



 それからというもの、青年は再び日々の務めにはげむようになりました。彼は毎朝祠に祈りを捧げ、野に出て羊の面倒を見ました。悩みにふけることもなく、以前のように懸命に働くようになった青年に神は満足しました。これでまた、青年の全ては自分になったのです。


 ですが、人の心というものはそう簡単ではありません。青年は以前のように真面目に祈り、働きましたが、それは全て例の乙女のためでした。彼は乙女が言い残した、与えられた務めにはげめばいつまでもそばにいるという言葉を頼りに日々の仕事をこなすようになったのです。悩みの代わりに、彼の頭は乙女のことでいっぱいになりました。彼は祈りました、羊たちの無事や日々の感謝、見知らぬ人々の安寧よりも、乙女の再来と彼女のもたらす天上の世界のために祈りました。彼は神々の世界がどのようなものか知りませんでしたが、きっと乙女の住む世界がそうなのだろうと想像していたのです。そこでは何もかもが完璧に満たされていて、乙女のように美しく、光り輝く人々が笑いあって暮らしているのだろうと青年は考えました。そして乙女の言うとおりにすれば、その栄光の片鱗を己も身にまとうことができるのです。

 乙女が現れたあの一瞬は、彼が今まで生きてきた年月の全てを合わせても足元にすら及ばないないほど満ち足りたものでした。青年はその幸せを再び顕現させるために日々の務めをこなしていたのです。


 結局、自ら人の姿を取り、歩むべき道に引き戻したにもかかわらず、神は己が化身に青年を奪われてしまいました。それでも神は、現れるべきと感じたときには青年の元に現れました。しかし青年の輝く瞳に映るのはをまとった虚構の娘の姿です。神が乙女の姿を取って顕現すると青年はそのたびに恍惚とし、再会の喜びで満たされるあまり約束を忘れました。青年が「乙女」の名を尋ねるたびに神は青年から離れました。神だけを慕い、仕え続けることが彼の幸せなのだと身をもって示しても、彼の目は乙女の幻影によってかえって曇ってしまったのです。

 神は三度青年の前に現れ、そのたびに素性を聞かれては姿を消しました。神はついに、戒めとして彼をちょっとした災難に合わせました――しかし、そのせいで青年は「乙女」の正体を知ることになります。青年の友人の一人、丘の向こうに住む隠者が彼の話を聞いて乙女の正体を見抜いたのです。

「お前というやつは、なんと愚かなことをしたのじゃ! 彼女の名は『幸せ』じゃ、わしのところにも来たことがあるわい! 彼女はお前が求めぬとき、問わぬときにだけ現れ、少しでも懐疑を示せば消えてしまう。お前にもう少し分別があれば、もっと長く共にいられたものを」

 青年はその答えを聞いて愕然としました。そしてもちろん、神もその答えを聞いていました。

 神からすれば、それは当たらずとも遠からずといったところでした。もちろん、乙女の正体は「幸せ」ではありません——しかしそれでも、幻影の言うことを全て聞いてさえいれば、青年は天上の喜びを享受し、満たされて暮らすことができたのです。

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