第41話 寄り添い、重さを分かち合う
フェリクスの剣が一条の閃光となって迸る。
刃が暗殺者の首を捉え、分厚い皮膚に食い込んだまさにその瞬間―――
『二人』が動いた。
一人は、決定的な死を突き付けられた暗殺者。
人体の可動域からして回避は間に合わない。その条理を覆すように一歩後退した。
たったの一歩、されどそれは、瞬きすら許されない刹那の時間軸での限界を越えた一歩だ。
その動きに、満身創痍になっても戦えるほど頑丈な身体が悲鳴を上げる。
天性の才が遮二無二掴み取った一歩。これでとりあえずの延命を―――
(オイオイッ、マジかよ)
それでも、足りない。
後退した自らの身体に追い縋って来た剣を見て、今度こそ暗殺者は全てを諦めた。
今の一歩は己の限界を越えたが故に出せたもの。
これで逃げられないなら、他に打つ手は無い。
暗殺者が手詰まりになった。であれば、後は分かりきった結果を待つばかりだ。
更なる介入が無ければ。
「―――行かないで」
極限状態に入った戦闘に、か細い声が割り込んできた。
それは、動いたもう一人―――フェリクスの背に守られ、恐怖に震えるしかない少女が、戦場という舞台で唯一己を表現できる方法。
様々な感情に揺れ動く、ともすれば耳に残らないほど小さなその声に、フェリクスの剣が鈍った。
シャルロットは、極めて純度の高い王族の血を宿した公爵令嬢であり、権謀術数渦巻く社交の場を幾度も乗り越え、人の表情の裏というものを無数に見て、探ってきた。
さらに言えば、この四年間は父親の顔色を窺う日々が続いている。
そのようにして手に入れた『裏を読む』能力が、心の深いところで強く訴えてくる。
『これ以上続けたら、目の前の男は戻れないところまで堕ちていく』と。
場を支配する雰囲気は、一秒毎に温かさを失い、無機質なものに変わっていく。
それと比例してフェリクスの剣技、魔術に磨きが掛かっていく。
これ以上戦ったら、フェリクスから人として大切な何かが欠落してしまう。
そうしたら、また自分は一人になってしまう。
―――確かに自分は誰かの隣にいるのに、相手は自分の声に答えてくれるのに、孤独に苛まれる感覚。
父親が近くにいるのは自分の魔術の進捗を知るため。
使用人が近くにいるのは、この身に流れる血に逆らえないため。
たくさんの人のなかにいながら、誰一人として自分を見てはくれない。
誰かと一緒にいるのではない。人々の中に紛れているだけ、そんな日常が戻ってくる。
(そんなの、耐えられるわけ、ないじゃないっ)
怖い、恐ろしい。
シャルロットは、何よりも自分自身が許せない。
だって、そうではないか。
自分が無力で、自らを守る力すら持っていないから、目の前の男が代わりに戦っているのだ。
自分が払えない対価をフェリクスに背負わせ、それが彼を決定的に磨り減らしている。
(止め、ないと)
そう思っても、止めていいのかすら分からない。
突き付けられた選択肢から目を背ければ、それだけフェリクスが遠ざかっていく。
シャルロットは、何も選べずに立ち尽くし―――そしてふと思い出した。
『どうすればいいのか分からないの?だったら、自分の心に聞いてみよー!』
いつそれを言われたかは覚えていない。
ただ、何故かお菓子を摘まみながらそれを得意気に語る姉のやけにうざったらしい顔だけは、鮮明に覚えていた。
何も特別な台詞ではない。
馬鹿でも思い付く、月並みで使い古された言葉だ。
だが、姉が言ったというだけで、それは無限の意味を持つのだ。
シャルロットは己の心に従った。
「―――行かないで」
「あ?」
死ぬ。死んだ。
そう確信させるほどの剣が鈍った様を見て、暗殺者は己の幸運に狂喜する。
それが更なる活力となり、限界を越えた先の、さらにその先、あり得ないはずのもう一歩を引き出した。
暗殺者自身の才能、そしてシャルロットの声。
二つが同時に効力を発揮したことで、結果として暗殺者はフェリクスの刃を回避することに成功した。
そしてそのまま、相手が追って来ないことを疑問に思いながらも逃走する。
暗殺者を逃がしたフェリクスは、直前で鈍った己の剣を呆然と見つめていた。
「行か、ないで」
シャルロットはもう一度その言葉を口にした。
そして、口にして、自分には目の前の男が必要であることを、強く実感する。
「行かないで」
近いのに遠い。
男の袖を掴んだ。
私はここにいるからと、あなたはそこにいてくださいと。
「行かないで」
繰り返す度に思いが強くなる。
「その言葉は、効くな」
ようやく聞くことができたフェリクスの声。
しかし、まだ分からない。
堕ちるところまで堕ちたのか、それとも引き留めることに成功したのか。
「はぁ。俺、あんだけ格好つけた後なんだけど?今さら行かないでとか、この恥ずかしさどうしてくれんだよ?」
「あぁ……」
「ちょっ!」
『いつもの』フェリクスの声色、口調、態度。
シャルロットは感極まって座り込んでしまった。
なんて間抜けでうざったらしい顔だろうか。それが、嬉しい。
「何でもないわっ。本当に、いいの。何でもないの……」
「―――そうかよ」
何となく心当たりがあるフェリクスは、ばつが悪い顔でそっぽを向いた。
それからなにかをしようとして、
「ありゃ?」
暗殺者がいなくなり、緊張の糸が切れたのだろう。
力が抜け、呆気なく崩れ落ちる。座り込んだシャルロットの上へと。
「えっ?ちょ、ちょっと重い、え?何で?死ん、え?あれ?ちょっと!ねぇ!!」
突然倒れたフェリクス。その傷だらけな様を今さらのように思いだし、シャルロットはこれ以上無いほどに取り乱した。
半狂乱になってフェリクスにすがり付き、
「え?」
そして、寝ているだけだと気付く。
「ちょっと」
揺すっても目を覚まさない。
間抜けな寝顔を晒して、シャルロットにもたれ掛かっている。
人が心配したと思ったらこれだ。
シャルロットは沸々と込み上げてきた怒りに任せてフェリクスを突き飛ばそうとし、しかしすんでのところで堪えた。
そして、フェリクスが寝やすいであろう体勢を取る。
「重いわね、これ」
不健康で痩せ型、平均的な身長とはいえ、成人男性のフェリクスは少女にとっては十分に重たい。
耐えきれない負担に足が痺れ、全身が疲れてしまう。
それでも、シャルロットは穏やかな表情でその体を支えた。
自分が苦しいだけ、フェリクスは楽なのだと信じて。
誰かに寄り添うという行為に、幸せを感じながら。
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