嵐山 葵に関する◯◯◯◯◯

桂花陳酒

嵐山 葵に関する◯◯◯◯◯

 私は絶対に死にたくないと思っている。それは、ただ単に今私が幸福の絶頂にいるからという漠然とした確信からだけではない。

 私は苦痛を恐れている。生命の終わる瞬間が一体どれほどの苦痛を伴うのか、それを語ってくれる者はいない。

 怖くて仕方がない。私はいつだって苦痛を恐れてきた。そして、その最上級たる死を恐れてきた。

それなのに。

 今までの私の行動の理屈では、今のこの状況を説明することはできない。

 目の前に差し出された苦痛を甘んじて受け入れている。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 謝罪と、私の首にかかる腕。

 どちらが、私を締め付けている?

 わからない。

 それならば、この状況を説明する為に一つ、情報を追加しなければならない。

 この謝罪と腕の主、嵐山 葵についての情報を。


────


 嵐山 葵は気の弱い女であった。社内での評判も芳しくなく、彼女の悪口を耳にする機会は少なくなかった。

 彼女は決して無能ではなかった。彼女は自身の業務内において、一度も間違いを犯さなかったし、与えられた仕事を確実にこなした。

 しかし、彼女の内向的で、消極的な性格。ただこの一点のみにおいて彼女は謝罪の言葉を口癖にしなくてはいけなかった。

「すみません」

「申し訳ありません」

 彼女にとって、謝罪とは呼吸と同じようなものだ。意識することなく口から滑り出る言葉であり、彼女は謝ることに慣れていた。これは以前彼女が私に話してくれた内容だ。

 私は、同僚として彼女のことをずっと観察していた。

 時に、私は彼女が上司に伝達のミスで謝罪する様を見て彼女を憐れんだ。不憫に思った。

 それで。いや、私の中にどんな因果関係が生じたかはよく分からないが、その日の業務後に私は彼女を―社内にはプライベートな話をする間柄の者のいない彼女を食事に誘った。普通に誘うだけでは断られると思い、私が奢るという条件もつけた。すると彼女は奢りという部分に遠慮を示したものの、誘い自体を拒否することはなかった。

 そうして、二人して近くのラーメン屋へ入った。

 私達以外に女性客は少なかったが、彼女はよくここへ通っているようだった。テーブル席に座り、冷水を運んできた店員に注文を伝え終えると彼女は私に向かって言った。

「あの、どうして私なんかを?」

「貴方に興味があったから」

 それだけだ。

 理由としてはありふれた、つまらない理由。けれど、そんなことは気にしなかったのか、そこに関して彼女はそれ以上のを追求してこなかった。

「興味って……仕事のことですか?」

「いえ、もっと個人的なこと。貴方という存在がどんな人物なのか、とても気になって」

「そうなんですか……」

 そこで会話は途切れた。沈黙の流れる間、私は彼女の挙動や仕草を観察していた。彼女自身の言葉から彼女を理解する必要はない。普段と違う環境の中でならまた新しい発見がある。だから、彼女を美術品を扱うかのごとく観察する。

 店内の照明を受けて輝く黒髪だとか。俯いた時に見える長いまつげとか。少し緊張しているせいだろうか、いつもより紅潮した頬だとか。

「…………あの」

 見つめすぎたのか。視線を感じたのか、彼女はこちらを向いて小さく呟くように声を発した。

「何でしょう」

「こういう時、何を話したら良いか分からなくて……その、えっと……」

「無理しなくてもいいの。言葉を交わすことだけが会話ではないから」

「あ……はい……じゃあ、そうしますね……」

 再び訪れた静寂。彼女は視線を意識してしまいあまり自然な動きではなくなってしまった。私がそのことにどうしようかと考えていると。

「お待たせしました」

 絶妙なタイミングで、注文した料理が運ばれる。

 熱々の湯気が立つ丼ぶりが二つ並べて置かれた。

「食べましょうか」

 割り箸を手に取りながら、彼女に言う。はい、と返事をして彼女もそれに倣う。

「いただきます」

 手元に意識を向けながらも、彼女の観察はやめない。彼女は割り箸を口に咥えて割り、麺に向き合う。

 俯いた彼女はかかる髪を邪魔そうに耳にかけ直した。

 その一連の動作に私は妙な色気を感じた。

 なんとも形容できない感覚だったが、それは確かに私の胸を高鳴らせた。

 その時を思い返してみれば、どうやら私は彼女の底知れぬ魔性のようなものに魅入っていた、或いは魅入られてしまったのだと思う。それが、無意識のうちに私の視線を、心を、思考を、彼女の方へと引き寄せていく。

 その日から私の保身に塗れた人生は崩れていった。

 得体の知れぬものの前に、私はただ猫となって好奇心に殺されるのを待つだけだ。


────


 嵐山 葵の、興奮した熱い吐息が顔にかかる。絶え絶えとした呼吸の中でも、謝罪の言葉は紡がれ続ける。

「ごめんなさいっ、ごめっ、んなさぃ」

 彼女が人を傷つける行為を嫌うのは知っていた。象のように体躯の大きな生物になるほど、知らぬうちに誰かを踏み潰してしまう。だからこそ。彼女はより矮小な存在へと成り下がることでそれを防ごうとしている。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 彼女が私の望みを叶える度に、彼女の中で罪の意識が膨れ上がっていく。それは彼女自身の意思ではない。他ならぬ私の願いによって、彼女の精神は蝕まれている。

「葵さん」

 名前を呼ぶ。

「……はいっ」

「苦しかった?」

「はいっ」

「痛かった?」

「はいっ」

「気持ちよかった?」

「はいっ」

 嗚咽まじりの返答。何度も繰り返される「はい」という言葉に、彼女の狂気じみた感情が込められていた。

「ねえ、もう一度絞めてくれる?今度は思いっきり」

 目の前に在る狂気は私自身の鏡写しだ。私が望むことを彼女はする。彼女は私の為に生き、私に尽くしてくれる。

 一見、被虐的に見えるこの欲望は私の加虐的で暴力的、そして利己主義的な、なんとも醜い本質。

支配と独善。他者を介した自己偏愛。

「もうっ、やめにしませんか……?これ以上したら、壊れちゃいますよぉ……」

 弱々しい声音で、彼女が訴える。

 それは決して間違いではない。しかし、どちらかが壊れるまで、この歪んだ関係は終わることはない。私は首輪をつけたご主人様であり続けなくてはいけない。

 けれど、高まった興奮で枷は既に壊れている。だから、ここで止めることなどできない。

「お願い、もう一回」

「で、でも……」

「貴方にしか頼めないことなの」

 全身の脈動と呼吸が加速していく。まるで身体中の血液が沸騰しているようだ。視界が揺れて、平衡感覚が麻痺する。

「……分かり、ましたっ……」

 躊躇いがちに彼女は返事をする。

 その瞳は潤み、頬は朱に染まっている。彼女の表情を見るだけで、私の欠けた部分が再生されていくような気がすると同時に、私を誑かした魔性が嵐山 葵の奥底から私を覗いているのを感じる。

「……ありがとう」

 礼を言うと彼女は目を伏せた。

「それじゃ、いきますね……」

 細い指先が、頸動脈に触れる。汗で濡れているせいか、この場に渦巻く興奮とは裏腹にひんやりとした感触。

「ふぅ……はあ……」

 少しずつ力が込められる。皮膚の下で血流が激しくなり、鼓膜の中で血管の拍動音が聞こえるようになる。

「ぐ……あ……」

 肺の中の空気が全て押し出され、代わりに掠れた喘ぎが漏れ出る。

 脳が酸素を求めてもがき苦しみ、正常な思考回路が途切れていく。

 耐えきれぬほどの苦痛。

 ああ。私はなんて愚かなんだ。あんなにも惨めったらしく生に執着していたはずなのに。死にたくないと、生きていたいと願っていたはずなのに。

 たった一つの言葉を聞くためだけに、たった一つの命を投げ捨てようとしている。

「ごめんなさいっ」

 それは、もしかすると私の抑圧されてきた希死念慮の鏡写しだったかもしれない。けれどそんな推測も無意味に返してしまうほど、その言葉は甘美な悦楽の響きだった。

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