可笑しくなってない

『さぁ、開演だ』

 お客様の案内をしている時、突如として男の大声が響いた。


「……何?」

「何か言いました?」

 案内していた客には何も聞こえていなかったのか、むしろ口走った私に対して疑問を投げかけてきた。

「――いえ、聞き間違いでした」


――どういう事? 確かに自分は現在20連勤に突入して、間違いなく疲れている。だが、あんなに大きな幻聴が聞こえるほど弱ってはいない……と信じたい。

 

「お疲れ様でーす……」

「お疲れー、すっごく疲れたね」

 その後、胸の内に悶々とした思いを抱えながらも、なんとか午前を乗り切り、休憩時間となった。やや遅れて休憩室に入ったきた同期の彼女も、同じようにつかれているようで、キリっとした普段の口調ではなく、間延びして気の抜けた返事を伴って扉を開ける。

「コーヒー飲む?」

「甘いやつでお願い」

 そして彼女はいつものように、コーヒーを作るため備え付けられたポッドへ手を伸ばす。

 

「そっちはあと何連勤で休み?」

 蛇口をひねり、ポッドに水を汲みながら、彼女は話を振ってきた。

「一応今日を乗り切れば一日休み……ホントこんなブラックな所に来るんじゃなかった……」

「いいじゃん休みがあるなら! 私なんて二週間は先だよ!」

「貴女は昨日休んだんでしょ……」

 そこまで話すと、彼女の作業が終わったのか、自分が座っているソファーに勢いよく腰掛け、衝撃で自分の尻が若干浮いた。

 

「はぁ……給料が高くなければ、とっくのとうに辞めてるよ」

「本当だよね! ――そうだ、聞いてよ! 今日対応したお客さんの話なんだけどさ!」

 そのまま二人は誰も居ないことにかこつけて、客の些細な悪口で盛り上がる。見た目が清潔じゃない、体臭や口臭が酷い、あの人の視線が気持ち悪かった。互いに感じた事を報告し、気を紛らわせる。どうせこんな愚痴を先輩に言ったところで解決はしないのだから。

「「はぁ……」」

 二人そろって溜息を吐いたとき、ポッドが音を立ててお湯が沸いたことを知らせる。彼女は席を立ち、自分も遅れるようにノロノロと立ち上がる。その時、背もたれに預けていた背中から、強烈な視線を感じた。

「えっ」

「なに、どうしたの?」

 慌てて振り向くも、先ほどと変わらないクッションの背もたれが存在していた。突然声をあげたことに彼女も驚いたのか、振り返って自分の顔を見ていた。

「……本当に疲れてるのかもしれない」

「そりゃそうでしょ~ とりあえずあと半日頑張りましょ」

 自分の言葉に納得したのか、さした追及もしないで、カップに沸かしたての湯を注ぐ。仲が良いといって、安易に踏み込んでこない気配りに内心で頭が上がらない。


「はい、どうぞ」

「ありがと」

 手を出す暇もなく、あっと言う間にコーヒーを完成させ、自分に手渡す。一口飲んで、いつもと同じ甘さが広がり、芯から温まっていった。

「「はぁ――」」

 先ほどとは違い、安堵にも似た感嘆が無意識のうちに漏れ出す。そう、さっきの視線や、謎の声を忘れ――

「そうだ、ちょっと聞いていい?」

「勿論~ 休憩時間がもうすぐ終わっちゃうから早めにお願い」

 チラリと時計を見ると、確かにあと数分で終わってしまう。たが、あれを正直に言ったところで疲れてるで終わってしまいそうな気がする。かといってあまり悩む時間もない……

 

「なんか接客中にさ"開演だ"って男の人の声が聞こえたんだけど、何か聞こえた?」

 結局分は悩んだ末、ストレートに聞くことにした。どっちにしろ聞き間違いの可能性が高いのだ、どうせ悩んでも笑われるだけだ。

「……そういった事は聞こえなかったけど、今日は男の人が多かったからその性かもね」

だが、質問を聞いた彼女の顔は一瞬で真顔に変わり、その代わりぶりは逆に自分の方が気後れしてしまうような雰囲気をしていた。

「ただまぁ、気のせいかも知れないし、なんか変な事聞いちゃってごめんね」

 なぜかその空気が嫌で、適当に取り繕った後、自分は逃げるように休憩室から退出する。


「やっぱあの子疲れてるよね、大丈夫かな……? 眠そうだったからコーヒーも苦めにしたのに、甘そうに頬を緩めてたし……」

 

「はぁ……」

 さっきの空気は何が嫌だったのだろうか。自分でも分からないうちに何処か苛立って慌てて部屋から出た。真面目に答えてくれたのだから、むしろ喜ぶべきことなのに、何故かそれが嫌だった。から無くて、自己嫌悪してしまう。 


『――さん、いいですか』

 その時、この悩みの元凶と同じ男の声が、背後から聞こえてきた。

「――っ!」

 勢いよく振り返り、喉元を掴む勢いで手を伸ばす。これで、絶対に逃がさ――

「ちょ! 私です!」

 目の前に立っていたのは、さっきまで共にコーヒーを飲んだ彼女だった。そもそも自分は休憩室の扉を開けてすぐに溜息をついたのだから、それ以外存在するはずがなかった。

 

『本当に大丈夫ですか? 休みましょう』

 彼女の声があの男の声で再生される。伸ばされた手を振り払い、走り出す。

『どこに行くんですか!』


 店内を走った。


『ちょっと! どこに行くんですか!』

『そこの人、走らないで!』

 なんで、周りの声も、あの男の声に聞こえるんだ。あぁ、なんで急にみんなおかしくなっちゃなったの……


 

 ねぇ、なんで自分一人だけ、可笑しくなっていないの…… 

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