コーヒーカップ

 今日、コーヒーカップを買った。

 会計を済ませた直後は、買ってやったとどこか自分を褒めて、誇らしく胸を張れていた。だが、冷静になって衝動ってのは何よりも力を持ってるんだと、エントランスの扉すら通らない箱が届いたときに、青ざめた顔と共に実感した。


 そう、買ったのは飲み物の器ではない。遊園地に置いてある、人間を乗せるためのコーヒーカップだ。この商品を通販で見つけた時、本当になんでも揃っているのだと苦笑した。だが、長年勤めた会社から不義理を働かれて、追い出されるように退職した自分の脳は、すでに死んでいた。だから、その商品を見た時、真っ先に思い浮かんだ言葉は――

「……欲しい」

 そして、マウスは、その商品をドラックし、カートへと放り込んでいた。


「……さて、どうしようか」

 運送会社の人に、これ以上無理だと汗をかきながら言われ、仕方なく玄関前の扉の横に放置されたいる。幸いにして、ここはマンションの角部屋で、他人に迷惑をかけることが無いことが救いだが、絶対に家の中に入れることは出来ない。解決するためには、どこかに田舎に行って家を買うくらいしか――


「そっか……家を買えばいいんじゃん」

 退職金は正直無駄遣いしなければ20年位は働かずとも食う事が出来る。そして両親は既に鬼籍に入っているし、兄妹は誰も居ない。自分を止める存在は既にいないことに今更ながらに気が付いた。気づけば部屋のPCの電源を入れ、大きな庭が付いている田舎の物件を選び始めた。



「やってしまった……」

 コーヒーカップを買ってから三日後後、自分でも驚くべきスピード感で、縁も所縁もない田舎に引っ越してきた。最初は独身職歴無しの人間がこんな土地に来るなんて、人生を終わらせるんじゃないかと紹介してくれた不動産の人は随分と心配をしてくれたが、皆コーヒーカップを見れば納得した。これを置けるのはこんなド田舎しかないと。


 そして今日、やっとの思いで、デスクワークですっかり鈍った体に鞭打ちながらした荷解きを終えた。これで、自分の土地になっている筈の庭に行くことが出来る。自分は筋肉痛が未だ収まらない体と、近所の人から借りたリアカーにコーヒーカップを何とか乗せ、ひぃひぃ言いながら、引き摺った。


「嘘でしょ……」

 なんとかその場所に着いたとき、自分は落胆を隠せなかった。確かにこの物件は、いくら田舎だと言っても、庭付き物件にしては格安だった。その理由は一目見ればわかる。土地は不自然に盛り上がり、煙草や酒瓶が大量転がる。ところどころに放置されている崩れかけのコンクリートには、下品な落書きが所狭しと埋め尽くしている。明らかに不良の溜まり場の雰囲気を纏っていた。

 

「もういっか、置こう」

 正直このまま組み立てても、不良の玩具になってすぐに壊されるかもしれない。もし手を出されなかったとしても、入っていた説明書には、コーヒーカップは出来るだけ平らな土地に置いてくれと書いてあった様な気がする。不安定な場所においたら、そのまま壊れるかも、と。だが、これをもう一度持って家に帰るよりは、コーヒーカップをどうにかして処理したいという思いの方が、辛うじて上回った。都合の良いところは忘れ、脳内にある記憶は見なかったことにし、リアカーに積まれた荷物を下ろし始める。


「――っと以外と軽い」

 コーヒーカップの組み立ては、拍子抜けするほど簡単だった。カップ部分が四分割に別れていて、それを模様が合うようにくっつけるだけの簡単な作業。素材自体は軽いとは言えないが、一人でも持てる程度の重さだった。

 重さの原因は、なんと付属していた巨大なハンドルと歯車だった。出品者は潰れた遊園地のオーナーか何かだと思っていたので、付属品などあることなど想定すらしていなかった。慌てて出品者を確認したら、現役のコーヒーカップ製造会社との説明がされていた。

 見た目だけで買ったのに、まさか遊べるとは思っていなかった。思わぬ幸運に頬が緩み、作業の手にも気合が入った。


 中々かみ合わない歯車の位置を調整していたとき、働きたての新入社員の時に抱いていた夢を思い出した。

 『将来は田舎で悠々自適に暮らしたい』

学校で毎日の様に小テストの点数を競って、入った会社でも営業成績がどうだと、常に比較されていて、疲れ切ったときに思ったような記憶を思い出す。そうすると、計画を相当前倒しにしたことになるのだろうか。

 貯金も心許ない、周りの高齢者しかいない中で、未だ40にも満たない故の年齢。正直勢いだけでここまで来て、不安は数えきれない。

 

「――完成」

 だが、今日みたいになんとかなるのだろう。扉を開け、コーヒーカップの中に乗り込む。おもむろにハンドルを強く握り、思いっきり回す。


 夢中になって気づかなかったが、既に夜になっていた。


――見上げた夜空は、今まで一番綺麗だった。

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