召喚
取り壊しが決まっていると言われて早数十年、すっかりと放置された旧校舎、そこに秘密裏に存在する誰も知らない地下室にの石床に刻まれたひび割れから、その場に似合わない魔法陣から、色彩豊かな光が漏れ出す。見る物がみれば、それは非常に腕の立つ魔術師が時間をかけて描いたものだと気が付くだろう。――そして、邪神を召喚しようとも。
『r’luh-eeh lg wgah’nagl』
しかし、そこで呪文を紡ぐのは、年端の行かない少女であった。痩せこげて、痛々しい見た目で栄養状態が良くないことが一目だ。そして、身に付けた制服も至る所に縫い目があり、ぼろきれ寸前だ。しかし、その表情は、歴戦の魔術師に引けを取らない程覚悟を決めていた。少女の喉から漏れた声も、耳を澄ませなければ言語ということに気が付かないだろう。しかし、それはきっと少女にとって都合の良いことなのだろう。その言葉の意味を知ってしまったら、引き返したくなってしまうだろうから
『ch’ ilyaa bthnk』
なおも紡がれた声によって、床から漏れる光がより強まる。しかし、自分が一節を口にするだけで、体から汗が噴き出し、喉もカラカラに乾く。それが緊張なのか、はたまた自分が犯そうとしてる禁忌に、本能が警告しているのか、自分でもわかっていない。
「やっぱこいつ臭いからさ、やっぱ水をかけてあげない!?」
「いいじゃん! めっちゃいい考えじゃん!」
――や、やめて……
「遠慮すんなって! 外は涼しいからすぐに冷えるしね!」
「まぁ雪が降ってるからちょっとじゃすまないかもしれないけどね!」
彼女たちの嘲笑が、未だ頭にこびりついて離れない。ただ、そんな屈辱や辛酸を思い出せば、今も体に広がる痛みは何てことはない、ただのかすり傷だ。
『sgn’wahl shtunggli』
「――ッ!」
しかし、その一節を唱えた時、明確に体に異変が起きた。
「あ、ぁああ……」
自分の体に何が起きている。事前のアドバイス通り、設置してあった姿見を確認した。
――しかし、何も変化は起きていなかった。二本の手足に、二つの眼球。二つの耳に、二十の爪先。何もおかしなところは存在しなかった。
「ぶ、うげええええ……」
しかしその疑問は私以外の吐瀉音によって、掻き消された。
「……ねぇ、なんであんたは誰かわかんないし、どうしてこんな事を……」
少女は声の方向を一瞥する。すると、そこには制服を着て手足を縛られた少女がバケモノを見るような目で見つめていた。
――あぁ、そうだ。彼女は私の恨みの元凶で、この儀式の生贄だ。そうだ、なんで今まで忘れていたんだろう。
けど、彼女もなんで私の事を忘れているのだろうか。あれだけ虐めた相手なんて、彼女にとっては興味が無い対象なのだろうか。しかし、その時、自分の顔を目深に被ったローブで隠している事に気が付いた。そっか、それならば、思い出せるわけがないな。私は、彼女に向かって一歩近づいた。
「ちょ、こないで!」
それだけで、高飛車で私を虐めていた彼女とは思えない程、酷く怯えていた。
だが、その滑稽な姿を見ても私は嬉しいとは感じなくなっていた。何故なのだろう、あれほど憎悪していた筈なのに。荒波が立った心はすっかりと萎え、再び儀式に向き合うことにした。
『thflthkh’ngh f’』
今度の一節は、生贄に強烈な殺意をもたらした。自分でもその感情の増幅に付いていくことが出来ない。確かにこの術式を教えてくてくれた魔術師は、自制が成功に最も大切なことだと教えてくれたが、それがこのことなのだろうか。確かに、ここで彼女を殺せば、一時的にはスッキリとするのだろう。だが、私を虐めた奴は一人ではない。校舎にいる奴を全員やらなければ、恨みは晴れることは無い。
だが、その私の思いとは裏腹に、この気持ちは美しく肥大していく。少女は無意識のうちに、生贄へ一歩近づいた。
「や、やめて……」
「Ga…… ――GeloAt' el!」
少女は何かを伝えようとした。しかし、口から出る言葉は、すでに人間のそれではなかった。それに気が付いた少女は、大きく口を開けて叫び始めた。
頬を通る様に唇が裂ける。口腔から舌が無数に飛び出す。全身から、緑色の何かが滴る。
少女は、そのまま生贄の頭を手にかけ、捕食し始める。魔法陣の完成なんてどうでも良い。ただ、怪物は、今を謳歌していた。
「うーん…… やっぱ恨みじゃ上手くいかないなぁ……」
「やっぱし、信仰心とかじゃないと駄目なのかな…… あぁ、時間の無駄だったなぁ」
部屋の隅で、誰かが言った気がした。
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