新人鑑識
「おーいお前ら、首尾はどうだ?」
煙草を咥えたよれよれのスーツの男が、規制線を跨ぎながら事件現場へと足を踏み入れる。一見頼りない風貌のこの人物こそ、警視庁が誇る敏腕刑事のM氏だ。
「よし、じゃあ現時点で上がった情報を頼む」
パンと手を叩き、煙草の火を消した。Mにとって、それは気合を入れるための儀式だった。
そんな噂でしか聞いたことのない伝説の人物を目の当たりにした新人鑑識のFは顔には出さずとも、猛烈に感動していた。
「おいF、ぼさっとしてんじゃねえぞ」
「す、すいません!」
「ったく…… 初の現場ってことで緊張してんのはわかるがよ……」
R先輩は都合の良いように解釈してくれた。
「まぁそうですね…… 一番最初の現場が集団自殺ってのは、多少刺激的っていうか……」
「同意だ。俺も10年以上現場に立っているが、ここまで凄惨なのは初めてだ」
そうして互いの視線を向けるのは、7つの死体が山のように積み重なった異常な光景だった。
きっかけは、最も多い近所の人からの通報だった。
――隣の家から異臭がする
通報を受けた警察官二人がが現場に向かうと、確かに異臭がし、それが直観的に死体の匂いであると気付いた警察は、その場で応援を呼び中へと踏み込んだ。結果、大量の死体が見つかったということだ。後の調べによって、この家に住むのはP一家、祖父母と同居した7人の家族。しかし、ここ一カ月、は子供の登下校や大人によりゴミ出しなどを一切見かけなかったということで、夜逃げでもしたのではないかと噂となっていたのが、近隣の住民による聞き込みによって判明した。何故夜逃げなのかと言えば、P一家は以前から宗教勧誘によって度々問題を起こしていたそうだ。そして深夜になると信徒を引き連れ大音量で儀式と主張する何かを行っていたようだ。そして、一番問題視特されていたのは、宗教の押し付けだそうだ。新しく引っ越ししてきた人を見つけたら、何時間でも居座り宗教の話をしようとするらしい。近所では悪評が立っている家族だったようだ。
「しかし、7人いますけど、全員P一家なんですかね」
「流石にそれは監察医の領分だな。ひとまず俺たちは、こっちの部屋で外部犯が侵入して事件を起こした線で調査をしていくから、指紋採取から始めてくれ」
「了解です」
しかし、いくら憧れのMさんと一緒に捜査ができるとはいえ、新人に任せるべき現場ではないように感じた。先輩は少し離れた床部分に早速取り掛かっている。もう少しR先輩はアドバイスをくれてもよいのではないだろうか。今一度、怪しい部分を探るため、死体の山を見てみる。P一家の顔ぶれが無造作に積み重なっているが、その中でもFは一番身長が低い子供に目についた。
「この子は――最年少の次男、C君か」
情報によるとこの子はまだ5歳だ。死因は調べているが、心臓に刃物を突き立てられたような外傷が見て取れる。こんな事件を起こした犯人を絶対に捕まえてやると義憤にかられていた時、ふと、C君が指を差している方向が気になった。
「――なんか怪しいな、コレ」
その先には、二階に続く吹き抜けの中央にそびえ立つ、文字通り一家の大黒柱が佇んでいた。どうせ目星なんてつけられないのだ、Fはこれから取り組み始めた。一家の柱と向き合い始めた。
「まずは発光薬を……」
散々勉強と練習を積み重ねたが、やはり本番は緊張するものなのか。Fは鞄に伸ばす手の震えが、中々収まらなかった。そんな時だった。
「――うーんつまりだな、今回浮かび上がってくる犯人は……」
自分の後ろに、他の刑事を伴ったMが歩いてきた。あの人の前で、液体を零す恥を晒すわけにはいかない、そう考えると、身が引き締まり、震えも自然と収まった。
「――でた、先輩! 一個見つけました!」
「ホントか! すぐ行く!」
Fは無事に、柱に残されていた手形を発見することができた。何かしらの成果を残せたことを喜びつつ、Rの到着を待った。
「しっかり採れてんじゃねえか」
パシャリと証拠写真を撮りながら、驚いたような口調でFを褒める。
「手形の大きさからして、恐らくC君のモノです」
きっと、ダイイングメッセージなどは知らないのだろう。だが、Cの残した違和感は、事件当時の行動を把握するための大事な手がかりになる。
「しかし、この柱を強く握っているように見えることが気になるんですよね。まるで何かから逃げてるみたい――」
「いや、それよりこれを良く見てみろ」
自分の推理をR先輩に披露していたとき、背後から突如として声を掛けられた。自分のトークを咎める奴は誰だと振り返ると――
「――っMさん!?」
「ここの部分だ、なんか匂わねぇか?」
憧れの人に声を掛けられて浮かれたのも束の間、Fは慌ててMが指を差した部分を見つめる。もしこれで、見落としがあったら、自分の評価は地に落ちてしまう。この人の前で、そんな凡ミスを犯すわけにはいかない。
「これは――掌底の一部でしょうか?」
Mはその言葉を聞いて、満足そうに口端を歪めた。
「俺も同意見だ。ってことは、この柱、もっと上にも手形が付いてんぞ」
「すぐに調べます!」
二度目の作業だ、手際よく、柱の上の部分から発光液を塗り込んでいく。それらが手形として浮かび上がっている度に、更に上の部分にも手形が付いていることが判明する。既にFは床から3mの位置まで到達していた。手形はどこまでも出現している。
「これどうなってんですか!? 普通ありえないですよね!?」
あまりの異常事態に、R先輩が周囲に掛け合い、現場にいる鑑識総出で加勢した。結局、数時間かけて天井まで届く約5mはある大黒柱の全ての面に発光液を塗り込んだ。
結果、全ての面から大小問わず様々な手形が現れた。
正確に言えば、
まるで幽霊でも住み着いているみたいだ。
正直に言ってここまで不気味な家が初仕事ならば、並大抵の現場に行っても通用するだろう。
自信をつけたところで、ふと窓を見ると陽が落ちかけてきていた。流石にここらで一度切り上げなければならないだろう。
上層部から引き揚げの指示が出たところで、使った道具を片付けようとしていた。結局今日は柱に掛かりきりだったから、明日は別の場所もやって経験を積もう。そうして、家のあちこちに散らばった道具を元の場所に戻そうと彷徨っていると、
「……ってことは…… つまり……」
何かをぶつぶつ呟きながら現場を見ているMがいた。そういえば、Mは過集中ともいえる程周りが見えなくなることがあると聞く。もしかして先ほどの指示も聞いていないのだろうか。
「Mさん、引き揚げだそうです」
その言葉に驚いたのか、勢いよくMは振り向いた。そして、Fを見て目を輝かせながら、凄い力でFを引っ張っていく」
「ちょちょっと! Mさん! 引き揚げですって!」
「お前鑑識だ! ちょっと手伝え! 最後にやり残したことを見つけた!」
あの伝説のMに頼られている。だが、今は痛さが勝った。抗議の声を上げても意に介さず無視をする。そうして、辿り着いたのは今日一日取り組んでいた大黒柱の前だった。
「おいお前ら! 発光液をここにある在庫分あるだけ持ってこい!」
そう声を張り上げ、やっとFを解放した。散々藻掻いていたが、突如として手放された衝撃と思わず尻餅をストンとつく。Mさんでなければ悪態の一つでも付くところだ。
「……で、自分は何をすれば……」
精一杯の虚勢を張って、やり残したこととやらを聞いた。
「それはな……これから天井全部に発光液を塗ってほしいだよ!」
屈託のない笑顔に隠された恐ろしい重労働に、在庫をかき集めていた鑑識は全員、思わず膝から崩れ落ちそうになった。
発光液は通常、指紋を集めるために壁面や側面に対して使う物だ。天井に塗るなど聞いたことが無い。しかし、何よりあのMがそう指示したのだ。何かしらの意図があるに違いない。意気消沈いている同僚を尻目に、道具を持って、設置した脚立を登り始めた。
そうして、再び鑑識総出で天井に塗り終えて結果を待った。
「――なんだこりゃ……」
その光景に誰もが言葉を失った。
発光液をかけた天井を埋め尽くすように、夥しい数の手形があったのだから。
「やっぱりここが!」
やけにテンションの上がっているMを見て、Fは思った。
やっぱりこの仕事、新人には荷が重すぎただろ、と。
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