第19話 夏奈と七瀬の現在
「ねぇ、夏奈でしょ? 夏奈なんだよね?」
「ふぇっ?」
七瀬先生が私の側へと歩み寄って来た。
「日向夏奈、あたしは七瀬だよ、
「立花……七瀬……? 日向……夏奈……?」
七瀬先生が私の肩に手を触れた瞬間の事だった。
瞬きをしたその暗闇の中を、走馬灯の様なものが頭の奥底でヒュンヒュンと聞いた事のない音と共に駆け巡った。
目が……瞼が……開けられない……。
淡い……。
儚げ……。
遠い……。
この記憶は……。
何年も前……。
いや……十年以上前……。
木の葉小学校……。
額を拭う汗……。
夏休みの前日……。
花の咲いていないひまわり……。
初夏の陽射しと校庭……。
ゆらめく陽炎……。
泣いている低学年の子……。
たぬきのポコタロー……。
古い旧校舎……。
鍵の壊された扉……。
しなる木製の建物……。
奇怪な音……。
地震……。
大きな揺れ……。
倒壊していく旧校舎……。
走る七瀬の後ろ姿…………。
溢れ出る涙……。
どこか遠くへ、遥か彼方へと砕け散っていた私の記憶の欠片が、次々と発掘され、徐々に点と線が繋がっていく事を感じる。
裏飯夏奈……。
違う……違うよ……。
それは……私の名前じゃない……。
私の……名前……。
裏飯……日向……。
日向……裏飯……。
夏奈……夏奈……。
思い出した……。
私の本当の名前は……。
日向……夏奈……。
日向夏奈……。
私は……私は……。
老朽化した木の葉小学校の旧校舎が崩壊して……。
たぬきのポコタローと一緒に旧校舎に埋もれて死んでしまったんだ……。
目が開いた途端、目の前に小学五年生の姿の七瀬と、七瀬先生の姿がダブって見えた。懐かしい……七瀬の姿……。
「七瀬……七瀬なの?」
「うん、うん! そうだよ、夏奈!」
「な……七瀬!」
「夏奈……凄く……凄く会いたかったよ!」
私が七瀬に抱き付こうとする前に、七瀬の方から先に私をぎゅっと抱きしめてきた。
「七瀬、く、苦しいよぉ」
「あっ、ごめんごめん!」
「それにしても七瀬、随分と大きくなったね〜?」
「当たり前だよ! もう十年以上は経ってるんだからね! 夏奈だってショートカットだったのに凄く髪が伸びちゃってるよ? 瞳の色まで変わってるし! カラコンでも入れてるの?」
「ふふっ♪」
「夏奈……ごめんね……あたしね……あの時から今日の今日まで……ずっとずっと後悔してた……夏奈を一人置いて……あたしだけが……」
七瀬の目から大粒の涙が溢れているのが見えた。
「七瀬……それは違うよ……あの時の私は普通に歩く事ができなかったんだから……」
「……」
「ありがとう……私の為に全力で走ってくれて……私の分まで一生懸命に生きてくれて……」
「夏奈……」
「私の方こそ……ごめんね……七瀬を十年以上も後悔させちゃって……辛かったよね……苦しかったよね……」
「ううん……違うの……辛くないよ……苦しくないよ……夏奈を一人にしちゃって……本当にごめん……」
「私ね……後悔なんてしてないよ……だってね……私が自分で選んだ道なんだから……あの時もね……最後の最後までポコタローと一緒にね、精一杯に生きたんだよ」
「うん……そうだね……」
「七瀬、ありがとう、大好きだよ♪」
「ありがとう……夏奈……」
今度は私が七瀬をぎゅっと強く抱きしめた。
「七瀬、みんなの事をお願いね」
「うん……? どうしたの……?」
「あの旧校舎の中に居た時にね、おばけの想いがひしひしと伝わってきたの」
「おばけの……想い……?」
「まだ一人、あの旧校舎の中に取り残されてる子が居るの……」
「ど、どういうこと!?」
私は一呼吸置いてから、平静を装って七瀬にゆっくりと語りかける。
「随分と遠い記憶だけど、あの夏、低学年の子たちが飼っていた、たぬきのポコタローが逃げ出した時、旧校舎の正面玄関は開いていたの。ポコタローは正面玄関から旧校舎の中へ入った訳じゃなくて、所々破損していた壁の穴から旧校舎の中へと入っていったの」
「それじゃあ正面玄関を開けたのは……」
「私たちの前にね、旧校舎の前で泣いている低学年の子たちの為に、正面玄関の鍵を壊して旧校舎の中へ入ってた子が居たってこと」
「だからあの時……鍵が壊されて開けられてたんだ……」
「私が見つけた足跡の事は覚えてる? 雪のように積もった埃に付けられた足跡は、私と七瀬よりも先に旧校舎の中へと入っていた、その子の足跡だったの」
「それじゃあ、夏奈とポコタローの他にもう一人……」
「旧校舎の倒壊に巻き込まれて、死んじゃった子が居るの……」
「そんな……」
「七瀬の知らない、違うクラスの子なの。当時小学五年生だった七瀬は、私が死んじゃった事によるショックが大きすぎて、私に関すること以外の情報を遮断しちゃって、他の情報については一切受け入れることができなかったんだと思うの……」
「うん……きっとそうだね……」
「だから……だから……もぅ……行かなきゃ……」
「行くって何処へ!?」
「誰だって……一人は寂しいからねっ!」
七瀬は心底おどろいた表情で私を心配そうに見つめていた。
「夏奈、待って! あたしも一緒に行く!」
「だめだよ!」
「夏奈、あたしはね、もしも次があったら、もう一度だけチャンスを貰えるのなら、夏奈の側から絶対に離れないって決めてたの!」
「七瀬……」
「だからもう、あたしがどんな目に遭おうと、夏奈を一人にはさせないよ!」
「七瀬……ありがとう……」
私と七瀬は、今まさに崩壊する旧校舎の中へと入って行こうとした。
「夏奈! 待って! どこへ行くの!? まさかあの旧校舎の中へ入る訳じゃないよね!?」
後ろから私に向かって、つばさが声を投げ掛けてきた。
「つばさ、まだ一人旧校舎の中に取り残されてる子が居るの」
「それって、僕とこくいがトイレで見たおばけの事でしょ!? 凄く危ないおばけなんだからさ、そんなの放っておいたら良いよ!」
つばさが私のすぐ側まで詰め寄って来た。
「違うの……危ないおばけなんかじゃないよ……あの子はね……泣きながら困ってた三人の低学年の子たちの為に……勇気を振り絞って……一人きりで怖い思いをしてまで助けようとしてたんだよ?」
「三人の低学年の子たち? そういえば旧校舎の昇降口で三人の低学年の子たちを見た……」
「それは恐らく、彼女の記憶の一部だね。この幻の旧校舎は不完全だから、断片的な彼女の記憶までも反映されているんだと思う」
「そうだとしても! 夏奈と七瀬先生が危険な目に遭うのは嫌だっ!」
「つばさ……」
「僕も行くよ」
「つばさ……お願い……私の最後のお願いを聞いて」
「最後のお願い……? 最後のお願いってなんだよ! それじゃあ僕はもう二度と夏奈に会えなくなるって事なんじゃないの!?」
──パン!──
──ポトリッ──
「えっ……」
「いっ……」
「マジかよ……」
「夏奈……」
私はつばさの左頬をはたいてしまった。
その衝撃で右手首が腕から外れて、右手首だけが地面へと落ちた。
「ごめんね……」
そう言って私は目の前に居るつばさを優しく抱きしめた。
「私の事を心配してくれて……ありがとう……。つばさの優しい気持ちはちゃんと……私の心の奥底まで伝わってるよ……。つばさはね……私の大切なお友達なんだから……。お友達ってね……困ってる時には助けてあげたり……弱ってる時には守ってあげたりしなきゃいけない時もあるんだよ……。今まで……たくさん私のわがままに付き合わせちゃってごめん……。私ね……ちょっぴり内気で……心優しくて……たくさんの勇気を持ってる……お友達思いのつばさのことが大好きだよ……」
私の右手首がつばさの頭をよしよしと穏やかに撫でていた。
頭の天辺へと温かい涙があたる感触があった。
「もう……時間がないから……行くね……ポコタローをお願い……」
「ぅぅ……うっ……ううう……ぅぅ……ぅう……うっ……ぅっ……」
私は後ろを振り返らずに、倒壊してしまった旧校舎の出口からではなく、正面玄関から七瀬と二人で崩壊していく幻の旧校舎の中へと再び入って行った。
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