第12話 遠い約束

「夏奈、どうする?」

「う〜ん……」


 夏奈は人差し指を唇に添えて考えを巡らしていた。


「走るっ!」

「えぇっ、走る!?」

「行くよっ! 七瀬!」

「夏奈! ちょっ、ちょっとちょっと〜! もうっ!」


 夏奈が階段を駆け上がり廊下を走り出す、あたしは夏奈につられるような形で後を追う。


「旧校舎はっ、新校舎に比べてっ、それほど広くはないからねっ」

「まぁっ、二階までしかないからねえっ」

「走ればっ、ポコタローを探すのにっ、それほどっ、時間はかからないよっ」

「ほんとか〜っ?」


 あたしは、あることに気付いてしまった。そのことを夏奈に言おうか、言うまいか、迷っていた。

 なぜ迷っていたかというと、そのことを夏奈に伝えてしまうと、焦りや不安が生じ、ポコタローを探し出す時間が余計に掛かってしまうと思ったからだ。

 あたしの気付いてしまったこと、それは先ほど階段を上っていた時にポコタローの足跡以外に、人の足跡を見つけたことについてだ。

 その人の足跡は階段を上っている足跡だけだった。つまり、階段を上る為に付いた足跡な訳だ。

 階段を下りた足跡は周りに見当たらなかった。

 そう考えると、階段を上り足跡を付けた人は、まだ旧校舎の中に居るということになる。

 あたしと夏奈は普通に声を出して会話をし、校舎内をけたたましく音を立てながら走り回っている。

 もし、階段に足跡を付けた人が校舎内に残っているなら、こちらの様子を伺ってきてもおかしくはないはず。

 そして、その人とは、先生じゃないことは明らかだ。

 なぜなら、旧校舎は立ち入り禁止だから。

 もし先生が校舎内に入ったのなら、児童が校舎内へ入っていることを黙って見過ごすはずがない。

 そうなると、考えられるのは、あたしと夏奈と同じ子どもということになる。

 もしくは……考えたくはないけれど……学校とは関係のない部外者……それに……それに……人じゃない何か……。

 いやいや、そんな悪い方向ばかりに考えるのはよくない、よくないぞ七瀬! もっと前向きに考えよう!

 事実は教科書よりも怪奇なりって言うでしょ? あれっ? 少し違ってる? とにかく! 明るくポジティブに考えないとねっ!


「七瀬、ポコタローの足跡がこの教室の中へ続いてるよ!」


 あたしと夏奈は、ある教室の開かれた扉の前で立ち止まった。

 教室の入り口の上部にあるはずの、教室の名前が書かれた表札が朽ち果てていて、ここがいったいなんの教室なのかは分からなかった。


「ポコタロー? お迎えにきたよー?」


 夏奈はそう言いながら、廊下から教室の中をそぉ〜っと覗き込む。


「入ってみよっか?」

「そうだね」


 教室の中には、初めて見る木造の机と椅子が置いてあった。どの机も雪が降ったように、埃がいっぱいに積もっているのが見える。

 教室の床へ視線をやり歩きながら、ポコタローがどこかにいないかを確認した。

 

「七瀬、あそこ、ほら、いるよ? ポコタロー見つけたよっ?」

「おぉ〜?」


 教室の後ろ側に設営された、木製棚の最下段に座っている、毛がモッフモフのたぬきのポコタローがいた。

 あたしと夏奈が近付いて行っても、ポコタローは逃げるはおろか警戒する素振りも見せなかった。

 おそらく人馴れ、いや、子ども慣れしているんだろうと感じ取れた。


「ねぇ、こんな所でなにしてるの? ポコタロー? お家へ帰ろうよ?」


 夏奈は無邪気にポコタローへ話しかける。


「キュゥン」


 ポコタローが夏奈に返事をするように鳴いた。たぬきってこんな鳴き声なんだ? 全然知らなかった、すっごく可愛い!


「ふふっ、可愛いねっ♪」

「あっはは、帰りたくないぽん〜だってさ」

「ぽん〜? みんな心配してたよぽん〜?」


 夏奈はポコタローへ向けて両手を伸ばした。ポコタローはクンクンと夏奈の手の匂いを何度か嗅ぐ仕草を見せる。


 ──ォ”ォ”ォ”オ”オ”オ”ォ”オ”ォ”オ”──


 またしても、どこからか奇妙な音が旧校舎内へと響いた。


「そろそろ〜……も、戻ろうかな〜……おじゃましました〜……」

「なんだか嫌な予感がするよ……」


 ──メ”ギ”ョ”メ”ギ”ョ”メ”ギ”ョ”──


 それは不安を煽るようで、不快に感じる奇妙な音だった。

 ポコタローに視線をやると、小刻みに身体が震えているのが見えた。


「ポコタローが怖がってる」

「夏奈、早く行こう」

「そうだねっ」


 夏奈は奇妙な音に震えるポコタローをすっと抱き寄せた。


「大丈夫だからね、私たちが居るから心配ないよ?」


──ミ”シ”ミ”ジ”ミ”ギ”ィ”ギ”ィ”…………グ”ヴ”ァ”ギ”ィ”ィ”ッ”ン”ン”ッ”!!!!──


 なにかがへし折れるような、けたたましい音が旧校舎内全体へと響き渡った。

 響き渡る音と同時に、教室の床が若干沈み、少し傾いたように感じた。


「なぁに!? なぁに!?」

「なんだか、大きな木が折れたような音だったね?」


 木が折れたような音……?

 木……木が……?

 木造校舎……?

 まさか……?

 自分で口に出した言葉に不安が小さく芽生えはじめている……。


 突然、教室を隔てた廊下の方から子どもの悲鳴が聞こえてきた。

 大勢の子どもたちが一斉に廊下を慌てて走るような騒がしい足音、折り重なるような悲鳴が頭の中や胸の内側へとズンズン入り込んでくる。

 でもその姿は一切、私の目に見えない。

 悲鳴と足音だけが木霊し、喧騒にまみれた木製の廊下を強引に踏み鳴らす。


「ぇぇっ!? どうして!? 私と七瀬以外に誰もいないはずだよねっ!?」

「夏奈、こっち!」


 あたしは先頭だって教室の扉から廊下を覗き込む。案の定、そこには子どもはおろか、誰一人の姿も見当たらなかった。

 ポコタローを抱える夏奈は怪訝な表情を浮かべている。


 ──ミ”シ”ミ”ジ”ィ”ィ”……バ"ギ"ィ”ィ”ッ”ッ”ン”!!──


 信じられないことに、私と夏奈が居る教室の床がググッと波を打った後、木製の床が一部爆ぜた。


「きゃあっ!」

「うわぁっ!」


 爆ぜた教室の床の辺りから、木が軋むような音が鳴り始める。


「やめてやめてぇ!」

「はぁあぁあぁあ!」


 あたしと夏奈は半ばパニックに陥りながら、教室から廊下へと飛び出した。


 ──バ”ァ”ギ”ュ”ゴ”ッ”ン”ィ”ッ”ン”!!──


 それはまるで、教室自体が異様な叫び声を上げたかのようだった。

 教室内で大きな音が鳴り、条件反射的に体がビクッっと強張った。

 廊下から教室の方へ振り返ると、教室の床にぽっかりと穴が空き、真ん中辺りに置いてあった机や椅子が階下へと落下し、見当たらなくなっていた。


「えぇっ!」

「そんな……⁉︎」


 旧校舎の所々から家鳴りのような音が聞こえる。

 神経が研ぎ澄まされているせいなのか、それは酷く、鮮明に、耳の中から頭の中へと駆け巡った。

 それはまるで、初めて目にする芸術作品を直視した時の感覚に似ていた。


「夏奈! 急ぐよ! 旧校舎が、崩れるかもしれないっ!」

「行こっ!」


 視界に映る廊下が少しずつ歪んでいる気がする。

 あたしと夏奈はその場から慌てて駆け出す。

 廊下を走ると同時に──ギギィギギィ──と木がしなる音が足下から聞こえた。

 ふいに後ろを振り返ると、少し離れた位置に夏奈の姿があった。

 夏奈はポコタローを両手で抱えているせいで、普段通りのように速く走れないでいた。


「夏奈! 早く! 急いで!」


 二階の廊下を突き当たりの端まで走りきり、一階へと続く階段を急いで駆け降りる時、旧校舎が──グゥニャリ──と大きく左右に揺らいだ。


「あっ……!?」


 あたしは階段の踊り場から更に少し移動し階段を下りている最中、後ろ側へと振り返る。

 旧校舎の横揺れで夏奈はバランスを崩してしまい、階段から転げ落ちてしまっていた。


「夏奈!」


 夏奈は両腕でポコタローを庇うようにまるっと抱きしめて、階段の踊り場へと倒れ込んだ。

 その際、夏奈は勢いよく全身を踊り場の床へと打ちつけてしまっていた。

 私は慌てて夏奈のもとへと駆け寄る。


「夏奈っ、大丈夫!?」

「うぅ……いったぁぁぁぃ……ぁぁ……ポコタローが……無事で良かったょ……」


 夏奈の腕の中で、ポコタローが上目遣いで夏奈の瞳を見つめていた。


 ──バ”ァ”ギ”ィ”ン”ッ”バァ”ギ”ィ”ン”ッ”バァ”ギ”ィ”ン”ッ”!!──


 先ほど走りぬけてきた廊下から、木が爆ぜる音が大きく聞こえてきた。


「あたしに、体重をあずけて大丈夫だからね」

「七瀬……ありがとう」


 私は夏奈を抱き起こし、肩を貸すような体勢を取った。夏奈は片腕だけでポコタローを抱きかかえている。

 こころなしか、ポコタローが心配そうな表情を浮かべ、夏奈の顔をじっと見つめていた。

 踊り場を抜け、階段を下りきった。

 ここから出口までは、長い一直線の廊下と少し右に曲がる通路だけだ。

 ここの通路さえ通りきれば旧校舎の正面玄関へと繋がる……。

 つまり出口ってことっ! あと少し、頑張るよ、夏奈っ!


 ──ヴ”オ”ォ”オ”ォ”ニ”ゲ”テ”ェ”──


 どこに居ても、不安を煽る音と一緒に子どもたちの悲鳴が聞こえてくる、これじゃまるで、お化け屋敷の中にいるみたいじゃん……。


「夏奈、大丈夫? もう少しだよ! あの角を曲がれば……」


 ──バ”ギ”グ”ゥ”ガ”ァ”ラ”ガ”ァ”ン”!!!!──


「うあっ!」

「きゃあ!」


 正面玄関へと繋がる、廊下の天井が崩れ落ちてきた。


「そんなっ……」

「嘘でしょ……」


 前方の廊下の天井が順々に崩れ落ちていくのが見える。


「もう……ダメかもし……」

「キュゥンキュゥンッ」


 沈んだ言葉へ覆い被さるように、まるでポコタローの鳴き声が鼓舞するかのように、私のネガティブな言葉を上塗りした。

 夏奈の腕の中でポコタローがもぞもぞと全身をくねらせて、旧校舎の廊下へと着地する。


「キュゥン! キュゥンッ!」


 ひょっとして……なにかの意思表示……まさか……本当に……?


「七瀬! 一旦戻ろっ、さっき歩いて来た廊下を引き返そ!」

「えっ?」

「ポコタローがこっちって言ってる!」

「ポコタローの言葉がわかるの!?」

「わかんないっ! でも、呼んでる! こっちって呼んでる気がするの!」

「夏奈……」


 夏奈は至って真剣な表情だった。

 私は夏奈のことを心の底から信頼している。

 なにも……迷うことなんてないよね……夏奈!


「わかった!」


 途端に、私の言葉の意味を理解したのか、ポコタローが正面玄関とは正反対の廊下を駆け出した。

 私と夏奈は先ほど歩いてきた廊下を引き返し、ポコタローの後を追う。

 夏奈は私の肩に体重を預け、足を引きずりながら歩いている。

 木製の廊下が歪み、至る所に傾斜ができていて移動するのにてこずる。亀裂の走った天井が、いつどこで落下してくるのかもわからない。

 私と夏奈の前を進んで行くポコタローとの距離が、どんどんと離れて行き、少し心細くなった。


 ──ゴ”ガ”ガ”ガ”ガ”ガ”ガ”ガ”ガ”ガ”ッ”!!──


 旧校舎内へ轟音が鳴り響いた瞬間、自然と背中を丸め、手で頭を押さえてしゃがみ込んでいた。

 振り返ると、廊下がなくなっていた。天井や柱が崩れ落ち、通路を完全に塞がれた状態だった。

 ドクドクと心臓の音が鳴っている様に感じられた。

 出口はどこ……? 本当に戻れる……? 夏奈……? ポコタロー……? 信じて……良いんだよね……?

 ミシミシと嫌な音を立てて、前方に見える各所の柱が折れ始めていた。木製の廊下が大破している箇所もあり、至る所の天井の板も抜け落ちている。

 再び、大勢の子どもたちの声が木霊する。


「「「逃げて」」」


 逃げて? ねぇ、そう言ってるの?

 でも、子ども達の姿は見えない、もしかして、旧校舎に染み付いた子ども達の思い出なの?


「っ……! 瀬……! 七瀬! 七瀬っ!」


 頭の内側から……声が……聞こえてくる。


「はっ!?」

「七瀬! 大丈夫!? 私の声! 聞こえてる!?」


 夏奈が大きな声で私の名前を呼び、体を揺さぶってくれていた。

 どうやら無意識の内に、現実逃避をしていたみたいだ。


「うん、聞こえてる」

「七瀬、よく聞いて、ここから先は、七瀬一人で、走って!」


 夏奈の言っている意味が理解できなかった。


「?」

「お願い、ここからは、七瀬一人だけでポコタローのいるところまで走って!」

「どうして……?」


 夏奈は無言で俯いた。


「もぅ……間に合わなぃ……。この距離じゃ……七瀬ならわかるでしょ……? ねぇ……ほんとはわかってるよねっ!」

「……ゎ……わからないよ……」


 胸が……ズシリと重く……息苦しく感じる……。


「七瀬!」


 夏奈の声でビクリと体が反応した。


「このままじゃ……私と七瀬、二人ともダメになっちゃう……だから……だからお願い……」


 私は夏奈の言うことは、しっかりと理解できていた。

 一瞬、頭にカァっと血が上り、イラついた。

 それは、夏奈に対しての怒りではなく、一人きりで廊下を走り抜け、恐怖から解放される自分の姿を想像をした、自己嫌悪から生じるものだった。

 あたしは……。

 アタシワ……。

 心が……。

 砕けそうだ………。


「七瀬、私たち、親友だよね?」

「え?」

「私と七瀬は、親友だよね?」

「うん……」

「私の一生のお願い……きいてくれるよね……?」

「一生の……お願い……?」

「ここから、ポコタローのいるところまで、全力疾走して」


 私は首を横に振った。何度も、何度も首を横に振った。


「いやだ!」

「七瀬」

「いやだいやだ!」

「七瀬っ」

「いやだいやだ嫌だっ!!」

「七瀬っ!!」

「いやだぁぁああああぁぁあぁあぁぁあああぁぁあああぁぁあ……ぁぁぁぁ……ぁぁぁ……ぁぁ……ぁ…………」


 涙と鼻水がブワッと流れて、止まらなかった。

 自然と上下に肩が動き、涙声が途切れ途切れに漏れる。全部ぐちゃグチャだ。


「約束する、約束するよ、必ず、戻るから、ねっ?」


 夏奈はそう言って、たちすくむ私をぎゅっと抱きしめていた。


 足元の木製の廊下がミシミシと嫌な音を鳴らし、グラァグラァッと揺らいだ。

 もぅ……時間がなぃ……。


「もぅ、ほんとに時間がないよ……」


 わかってるよ……わかってるよ……そんなこと……。

 夏奈が私の体を力いっぱいに掴んで、ポコタローの走って行った方へと、無理やりに押し出してきた。

 私の重たい足が、半ば強制的にとぼとぼと前へ進む。


「七瀬との約束、忘れないからねっ♪」


 振り返ると、夏奈は真っ白な八重歯を見せて、これ以上にない最高の笑顔を見せてくれた。

 けれども、夏奈の澄んだ瞳からは、きらりとひとすじの輝く涙が、ココア色をしたマシュマロのように柔らかそうなほっぺを伝っているのが見える。

 私は……胸がいっぱいだった…………。


「七瀬! さぁ! 走って!」


 私は泣きながら全力で走った。声を上げながら走った。すごくかっこわるい姿だと思う。

 涙が溢れすぎて前が見えない。けれども、一生懸命に走った。


 夏奈の一生のお願い……それは……どういう意味で……受け止めればいいんだろう……信じる……あたし……夏奈のこと……信じてるからね……必ず戻るって……約束したよね……夏奈……夏奈…………。


 歪みきった廊下の前方に、ポコタローの姿が遠くに見えた。

 ポコタローのいる前には、大きな扉があった。おそらく、非常口なんだと感じ取った。

 扉は少し開いていて、外の明るい陽射しが開かれた隙間の中へと入り込んでいる。

 出口……あれが出口だ!

 

「ポコタロー!」


 後方から木が爆ぜる音と天井や柱が崩れる音が迫り来くるのがわかった。

 旧校舎が崩れる!

 間に合う!?

 ポコタローが出口に小さな体を押し付けて開こうとしてくれている。

 出口まであと少し!

 息が上がる!

 それでも無我夢中で走った!

 ポコタローが少し押しあけてくれた扉に、あたしは勢いよく体当たりした。


 ──バ”ァガァアアンッ!!──


 閃光。

 眩しい。

 真っ白な世界。

 扉にぶち当たって地面へと倒れ込む。

 呼吸が乱れ。

 ふらふらと立ち上がる。

 俯いたまま茫然と数メートル歩く。

 服、スカート、全身が。

 砂まみれで汚れている。

 別にどうでもいいや。

 足の感覚がないんだ。

 ペタンと地面へ崩れるように座り込んだ。

 お人形さんみたいに項垂れてる。

 声が聞こえる。

 誰。

 さっきの。

 泣いてた女の子。

 どうしたの。

 三人がかりで。

 そんなに引っ張らなくても。

 あぁ。

 意外に力があるんだね。

 引っ張られる。

 無意識に足が前へと出る。

 歩かされてるじゃん。

 引っ張ったね。

 どうしたの。

 泣いてるの。

 みんなで。

 あたしをぎゅーって。

 うぅ。

 苦しい。

 重たい。

 あたし。

 まだ。

 生きてる。

 苦しいって感じるから、生きてることを感じてる。


「うぐっ、ぷぁっ、ぢょっと、苦じぃよ」

「ひぐっ、ひぐっ、お姉ちゃあぁぁん」

「わ、わがったがらぁ、ねっ? ぢょ、ちょっとはなれよっがっ」

「ひぐっ……ぅん……ひぐっ……」


 振り返ると、旧校舎の半分以上が倒壊していた。


「か、夏奈!」


 あたしは反射的に飛び出してきた扉へ向かって動き出していた。


「お姉ちゃん! だめ!」

「危ないよ! 行っちゃだめ!」

「ひぐっ……だめぇ……ひっぐ……」


 体が重たくて前へ進めなかった。

 低学年の子たちが三人がかりで、あたしを崩れる旧校舎へ行かせまいと脚にしがみ付いている。


「違うの、夏奈がね、夏奈がまだ中に居るの!」


 飛び出してきた扉の前には、ポコタローの姿があった。

 ポコタローは、崩れてしまった扉の小さな隙間から、旧校舎の中へと駆け込んで行く。

 ポコタロー……? どうして……? まさか……夏奈の所へ引き返して行ったの……?


──ゴ”ゴ”ァ”ア”ア”ァ”ド”グゴ”ォ”オ”オ”ガ”ァ”ギ”ィ”ャ”ヤ”ッ”ゾ”ン”!!!!──


 辺りに轟音ごうおんとどろいた。

 重苦しくて、悲しみに満ちた音。

 それは、あたしが今まで耳にした中で、一番大きな音だった。

 砂埃がけたたましく瓦礫の山へと舞い上がる。

 旧校舎は、完全に倒壊した。


「やだっ……どうして……ねぇ……やだよ……夏奈……夏奈ぁぁぁぁああああああああああああっっ!!」


 旧校舎へ向けて伸ばした手が、ただ虚空を彷徨い、あたしの声は暗闇に飲み込まれた。

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