第8話 迫り来る巨大なフェイス!!

 そこには、とてつもなく巨大な人の顔があった。

 

 その顔は、美白の肌で、ツルツルとしていて弾力があった。

 顔の高さは床下から天井くらいまであり、横幅が本棚と本棚の間隔くらいまであり、人が横並びになって五、六人分ほどのものだった。

 視界の全てが一つの顔で埋め尽くされている。

 口はきゅっと閉じられていて、唇はドス黒い紫色をしている。目の部分は髪の毛で隠れていて見えなかった。

 この顔のサイズを考えると、髪の毛の長さや太さは適当なのかもしれない。

 けれど実際にこの長くて太い髪の毛を目の当たりにすると、不気味で異様に感じられてゾッとした。

 僕たち三人はたぬきの尻尾に引っ張られていたんじゃなく、この異様に長くて太い髪の毛に引っ張られていたんだ。たぬきのようなモッフモフの尻尾のように見えたけれど、実際はこの巨大な人の顔の髪の毛の一部なんだ。


「ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”」


 巨大な人の顔は口を閉じたまま唸り声のようなものを轟かせ、鼻から生暖かい息をもらした。

 生暖かい鼻息はすごく甘い匂いがして、僕たち三人の髪や服をなびかせた。


「なんなんだよこれ!」

「ねぇ、逃げた方が良いよ!」

「ひ、ひぃっ!」


 ドス黒い紫色の唇がブルブルと戦慄わななき、口をゆっくりと大きく開いた。大きな舌と白い歯がたくさん見える。

 大きく開かれた口、暗い喉の奥の方から、ゴボッゴボッゴボゴボッと液体と空気が入り交じり、目の前で川が氾濫しているかのような音が聞こえてきた。

 次の瞬間、暗い喉の奥からエメラルド色の液体が滝のように、ものすごく激しい勢いで流れ出てきた!


 ──ゴゴォゴォォオザザザァアアアアッッパァァアアアアァンンンン〜!!──


「うおわぁっ!」

「きゃぁああっ!」

「わぁひぃぃぃっ!」


 僕たち三人は、滝のように流れ出てきた、エメラルド色の液体に勢いよく後ろ側へと流された。エメラルド色の液体はヒンヤリとして、まるで氷のようにとても冷たかった。

 巨大な人の顔の大きく開かれた口からは、尚も激しい勢いでエメラルド色の液体が放出されている。

 図書室の床一面はエメラルド色の液体でちゃっぷんちゃっぷんと浸水していた。


「早く図書室から出よう!」


 まるで本当に滝の近くに居るような轟音の中、春風さんが大きな声でそう叫んだ。


「つばさくん!」


 図書室の床へ流れるエメラルド色の液体のかさがだんだんと増してきている。

 いつのまにか足首の上辺りにまで、ヒンヤリと冷たい感触があった。

 液体の流れが激しくて、最早もはやまともに歩けそうにない。立っているだけでも精一杯といった感じだ。


「つばさくん! 掴まって!」


 図書室の床下から視線を上にあげると、春風さんが大きな本棚に掴まり、片手を僕の方へ向けて力一杯に伸ばしてくれていた。

 僕は立ち上がった状態で激しく流れるエメラルド色の液体に足元をすくわれないよう、両足に力を入れて踏ん張りながら、春風さんの手を握ろうとグッと手を伸ばした。


「もうっ、少しっ、だよっ!」

「届けぇっ!」


 やっとの想いで春風さんが僕の手を掴んだ! そして力いっぱいに僕の手を引っ張った!

 なんとか一番激しい流れの場所から離れる事ができて、僕は春風さんと密着する状態となった。

 片手で春風さんの手を握り、もう片方の手で大きな本棚の端をガシッと掴んだ。


「春風さん! 助かったよ、ありがとう!」

「うん! つばさくん! 冬麻くんはどこ!」


 自分の周りをぐるっと見回しても、さっきまで隣に居た天城くんの姿は見当たらなかった。


「居ない! どこにも居ないよっ!」


 徐々に不安が募っていく中、図書室のどこからか、激しく流れる液体の音と共に悲鳴が聞こえてくる。


「助けてくれえぇぇぇ!」


 僕と春風さんは咄嗟とっさに顔を見合わせた。


「冬麻くんの声だ!」

「あっちの方から聞こえたよ!」


 春風さんは大きな本棚を伝って移動を始めた。足元に激しく流れる液体の勢いはとどまる事を知らない。


「春風さん! 大丈夫!?」

「なんとかね! 冬麻くんを助けに行かないと!」


 春風さんはなんのためらいもなく前へと進んで行く。凄く怖がりなはずなのに、冬麻くんを助ける為、とっても勇敢だ。

 僕は……? 僕はどうなんだ……? 冬麻くんを助けに行かないのか……?

 春風さんを一人危険な目にあわせるのか……?

 動け……! 動け僕の足……! 震えてる場合じゃないだろ……! 動いてよよ……! 友達の為……! 大切な友達の為……!!


 エメラルド色の液体から発せられる冷気で、図書室全体に冷たい空気が広がっている。だけど僕は自分の身体中がぽかぽかと熱くなっているのを感じた。


「春風さん! 僕も行く! 僕も一緒に行くよ!」


 後ろを振り向いた春風さんは、険しい表情から一瞬だけ笑顔になって、「うん!」と一言だけ言いながらこくりと頷いた。


「春風えぇぇぇ! 京乃おぉぉぉ!」


 冬麻くんの叫ぶ声が、だんだんと大きく聞こえてくる。

 僕は一生懸命に大きな本棚を伝って、春風さんの後ろに続いて歩いた。

 エメラルド色の冷たい液体に足元をすくわれないよう、慎重に進んで行く。

 常日頃、何気なく利用している学校の図書室が、こんなにも広く感じるだなんて……。


「つばさくん! 見て!」


 春風さんの声に反応し、僕は春風さんの視線の先の更に前方へと目を凝らした。

 そこには、凄まじく激しい勢いで流れる液体の中、大きな本棚にしがみついている冬麻くんの姿があった。


「冬麻くん!」

「た、助けてくれ! 一歩も動けねぇ!」


 エメラルド色の液体の量が増え続けている、このままだと僕たち三人は図書室で溺れてしまうんじゃないか……そう思ってしまった。


「冬麻くん! 本棚から手を離して!」

「はぁ!?」

「私が受け止めるから!」

「えぇ!?」

「私とつばさくんが受け止めるから!」

「マジかよ!」


 春風さんは真剣な表情で冬麻くんへ向かって声を張り上げた。そして、後ろ側に居る僕の方へと振り返る。


「つばさくん、大丈夫だよね?」

「本当に!?」

「だんだんとこの液体の流れが激しくなってきてる、これ以上は前に進んで行くことはできないと思うの」

「たしかに……」


 春風さんは、冬麻くんがしがみついている本棚からわざと手を離させて、流されてくる冬麻くんとキャッチしようと考えているんだ。

 冬麻くんを助ける為に……やるしかない……覚悟を……決めるしかない!


「つばさくん、信じてるからね!」

「わかったよ!」


 春風さんは片手で大きな本棚を掴んだまま、反対の片腕を大きく振り上げて冬麻くんへ合図を送った。


「もぅダメだ、手の力が限界だ!」

「冬麻くん! 手を離して!」

「春風えぇ! 信じるからなぁ!」


 エメラルド色の液体は、丁度僕が立っている太腿ふとももの辺りにまで量が増していた。

 次の瞬間、冬麻くんは両手で掴んでいた大きな本棚から手を離し、激しい勢いで流れるエメラルド色の液体に流された。

 

「うおわあぁっ!」

「冬麻くん! 私の手に掴まって!」

 

 天城くんが必死に手を伸ばしているのが見えた。僕の数メートル先に居る春風さんも目一杯に天城くんへ向かって手を伸ばす。


「春風えぇ!」


 春風さんの手と冬麻くんの手が触れるまで、あとほんの数センチという所だった。

 しかし、ギリギリの所でお互いの手が触れ合う事はなかった。

 つまり……春風さんは液体に流される冬麻くんをキャッチする事が出来なかった……。


「冬麻くん! そ、そんな……」


 僕の瞳に、今にも泣き出してしまいそうな春風さんの姿が映る。春風さんは手を伸ばしたまま唖然あぜんとしている。


 考えてる暇なんてない!

 ピンチはチャンスなんでしょ!

 友達を助ける為に理由なんて必要ない!

 僕は咄嗟に、流される冬麻くんへ向かって目一杯に片腕を伸ばした!


「冬麻くん! こっちだぁぁあっ! 僕の手に掴まってぇぇ!」

「きょっ、わっぷ、京乃ぉぉおお!」


 流される天城くんが、だんだんと近付いて来る!


「あと少し! あと少しなんだ! 届け! 届けえぇぇぇぇ!」


 冬麻くんも僕に向かって懸命に手を伸ばしているのが見えた。


「つばさんくん! お願い! 冬麻くんをキャッチして!」


 前方から春風さんの叫ぶ声が聞こえた気がした。

 次の瞬間、僕の指先に……何かが触れる感触がした!


「キャッ、キャッチィィイイ!!」


 僕と冬麻くんはお互いに手首の辺りをがっちりと掴みあっていた。


「京乃!」

「冬麻くん! こっちに引っ張るからね!」


 流れる液体の中あいまってか、冬麻くんは物凄く重たかった。

 それでも僕は冬麻くんを力いっぱいに引っ張る。

 なんとか引き寄せる事に成功し、冬麻くんは大きな本棚に掴まりながら、ゆっくりと立ち上がった。


「はぁはぁ……京乃……助かったぜ……ありがとな」

「はぁはぁ……冬麻くん……無事で……良かったよ」


 ふと気が付くと、先ほどまで太腿の辺りにまで流れていたエメラルド色の液体の量が減少し、流れる勢いも弱まり、まるでゆるやかに浅瀬を流れる川のように変化していた。


「ありゃ?」

「これなら、普通に歩けるぜ」


 僕と冬麻くんは視線を足元に向けていた。


「きゃぁぁああっ!!」


 突如、前方から春風さんの悲鳴が聞こえてきた。

 視線を上げると、春風さんの足先から太腿にかけて黒色の細い糸のようなものが無数にまとわりついている。


「春風さん!」

「なんだよあれ!」


 次の瞬間、春風さんはその黒色の細い糸に引っ張られ、どこかへと引きずられそうになっていた。


「やだ! やだ! 離して!」


 僕と冬麻くんは急いで春風さんのそばまで駆け寄り、春風さんの足にまとわりつくものを両手で掴んだ。


「この糸みたいなのヌメヌメしてる! これっ、髪の毛だよ!」

「さっきのでけぇ顔のやつか!」

「やだっ! 引っ張られてる!」


 引っ張られる力が強く、春風さんは掴んでいた大きな本棚から手が離れてしまった。


「きゃぁぁ!」


 春風さんはズルズルと無数の髪の毛に引っ張られ、僕と冬麻くんも床の上へと倒れ込んでしまった。身体中がエメラルド色の液体で濡れ、ヒンヤリと冷たさを感じる。

 ズルズルと図書室の床の上を引きずられ、その先には……あの巨大な人の顔があった。


「ひぃ!」

「わわっ!」


 巨大な人の顔は口を大きく開けた状態で、相変わらず目の部分はヌメヌメでしとどに濡れた髪の毛に隠れて見えなかった。

 開かれた口の中から鮮やかなピンク色の舌がびゅるびゅるびゅるると前の方へと伸びてきている。


「うわぁ! 伸びてる伸びてる!」

「やだっ! やだっ!」


 僕と冬麻くんは立ち上がって、春風さんから巨大な顔を遠ざける為に足を思いっきり、巨大な人の顔とは反対側の方へと引っ張った。


「んぎぎぎっ!」

「こんにゃろぉお! 離しやがれぇぇ!」


 まとわりついた無数の髪の毛は春風さんの足にしっかりと絡みついていて、離れる気配がしなかった。

 徐々に徐々に、大きく開かれた口の方へ引きずられ、ピンク色の舌が春風さんの足に触れそうな程の距離になる。


「僕の!」

「俺の!」

「「友達から離れろおぉぉぉおおおっっ!」」


 僕と冬麻くんは渾身の力で春風さんの足を引っ張った。それでもヌメヌメとまとわりつく無数の髪の毛は、春風さんの足から離れることはなかった。

 ついに、ピンク色の舌は春風さんの靴へ触れる。


「これじゃあ引っ張ってもらちがあかねぇ! 京乃! 踏め!」

「えっ?」

「俺が引っ張ってる間に踏め! その舌を踏み付けるんだ!」

「ええぇぇ!?」


 こんなに大きくて、分厚くて、艶々のヌメヌメで、びゅるると動くピンク色の舌を踏み付けるの!?


「きゃぁあ! やだぁあ!」


 ピンク色の舌は春風さんの足首をベロリと舐めた。


「やめて! やめってったら! 足首を舐めないで!」


 春風さんの悲鳴が耳の中で木霊こだまする。


「京乃! 時間がねぇぞ!」

「ひぃ! 気持ち悪いよ!」

「踏めえぇぇぇぇえ!」


 友達を……春風さんを助けるんだ……何を戸惑っているんだ僕は今……!!


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