第24話 汚泥の中で

 呼吸すらままならない汚泥の中、酔いしれていた思考が急速に冷めていく。そしてわたしは背中に残る鈍痛が引いていくのに合わせて、ゆっくりとそこから顔を持ち上げようとした。


 しかしヘドロがいやに重く、底なし沼のように体にまとわりついて起き上がれない。このままでいれば膝下ひざした程度のかさしかないヘドロに溺れてしまう・・・はずなのに、変わらずわたしに焦りはなかった。


 というよりも、焦る以前に驚いていた。口や鼻をヘドロに塞がれたわたしが、歩ける陸と吸える空気を要する生き物である前提を以ってしても、この超然と広がる光景を前には、まず驚愕せざるを得なかったのだ。


 男女合わせて8名ほど、それらが一様に作業台の周りで痙攣ひきつけを起こし悶えている。それもこの黒々としたヘドロの中でだ。


 もしかしたら酸素が不足して幻覚でも見えているのかもしれない。しかし息苦しさなどは特に感じず、むしろどこか嬉々ききとした感情がもやもやと燻っているのだ。これは死を目前に控えた走馬灯を、脳が映画か何かと勘違いして苦痛を忘れさせているだけなのだろうか。


 すると、群れのうちの一人がノコギリで腕を切る役を担い、ほかがにえとなった一人を抑え込む。そのような随分と既視感のあるおぞましい儀式が8人の集団によって催された。そして一回目とは多少異なるものの、響く悲鳴や飛び交う怒号は、やはり先ほど入り口で見下ろした光景に類似する。


 しかし特に邪魔が入る事なくバッサリと贄の腕を切断しきったところは、わたしの既視感に当て嵌まらない。それどころか彼らのほとんどが一斉に此方へ顔を向け、期待と不安の色を滲ませているのだ。


 そしてその面々の中には、泣き腫らした顔に精一杯の笑みを貼り付かせた河上 美淮の姿もあった。


 なぜ河上がそこに居るのか、という当然の疑問とは裏腹に、わたしの視界は鷹揚おうように頷いて次の贄へ指をさした。さされた者は目を剥いて暴れ出し、さされなかった者には安堵と喜色が満ち満ちて狂宴さながら騒ぐのだ。


 彼らを繋ぐ鉄の鎖は、こんがらがった受話器のコードみたく群れを囲んで、より奇妙な集合体に近づける。作業台には、それがもんどり打って自切した跡がズラリと並び、わたしはただ古い方から順々に並んだ老若男女の腕を回収していく。30…31…32…、そしてそれらを薪のように積み重ね、恍惚とした気分で眺め入るのだった。


 すると、チャンネルを切り替えたかのように頭が一瞬かすみがかり、わたしは手の中にある通電スイッチを見つめていた。そして奥には千切れかけの腕を抱いた女が、鎖の破片にまみれてうずくまっている。


「うぅ、ぐすっ・・・許さない・・」


 女は血走った目を全開にしたまま、床に眼球がつくか、つかないかという状態でとても器用に泣いていた。かと思うと、ドスの効いた声でギョロリとわたしの方に目を向けた。


「それ・・・貸してよ」

「・・・え」


 そう言うが早いか、女は瞬時にスイッチをわたしから奪い去る。そして背後から、この世のものとは思えない叫びが轟いた。


「アハハハハ!!死ね!死ねぇぇえ!!!」


 感電する者達と、それにまとわりつかれた虫から無数の電光が荒々しく跳ねる。そして焼けつく臭いが一層増したかと思うと、急火が彼らを包み込んだ。火だるまの中では影が揺めき、全てをただれさせていく。


 そこでふと入り口付近に居た河上のことを思い出した。しかしアイツがいた所は既にモノケの殻で、わたしはただ漠然と燃え上がる彼らを流し見て熱気に包まれた部屋を後にしたのだった。

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