第23話 失念

 胸中の自失と共に作業台へ打ち付けられたわたしは、間もなくやって来るであろう想像絶する地獄の苦しみから、ほんの少しでもこらえるために、短いながらも持て余していた生のゆとりを保つために、どことなく所在なさげな歯を先んじて食いしばってみた。


 けれど一向に痛みは訪れない。もしかしたら、即死した弾みで幽体離脱でもしているんじゃないかと錯覚しそうになるほど痛みとは無縁で、それどころかガッチリ虫に拘束されていた身体まで自由が効くのだ。


「おいコラァッ!ぼーっとすんなガキ!今度こそ死んじまうぞ!」


 わたしはようやくそこで、今一度自身を取り巻く状況を意識した。


 まずは群れの一片であった男が、ひしと虫のてあしを何本か抱き抱えて力任せに引っ張っている。次いでわたしを貫いたはずの杭は衣服を掠めて、かなりすれすれの所に突き刺るだけにとどまっていた。


「グガアアアアアッ!!!」

「あぶねっ!・・・おい、お前らも手伝え!!大人が子供に負けてんなよ!今ヤレなきゃどうしようもねぇぞ!」


 これがつるの一声とでもいうのだろうか。似たセリフでもわたしが支援を求めた時とは打って変わって、呆けたり騒いだりするだけであった連中は我に返った者から徐々に奇怪な虫へ立ち向かおうとする。


 それが少ししゃくに触ったが、この好機を逃すわけにはいかない。わたしはベコベコになった作業台から飛び起き、今は巨大な虫と化している変人がまだ人の形をしていた頃の場所を目指した。


 そこにあるのは目に余るほど毒々しい見た目をしたヘドロ溜まり。そのような便槽に残る排泄物の山と同等の場に、わたしはたどり着くなり所構ところかまわず滑り込んだ。そのヘドロの中は絶妙に温かく、表面は氷のように冷たかった。


 ちなみに気が狂ったとか、全てが嫌になったとかではない。わざわざこんな臭い思いをしてまでいるのは、現状を打開する術があるからだ。


 だからわたしは、その汚泥に触れる身体の面積を可能な限り減らしたい欲を抑えつつ、手早く目当ての物を見つけようと泥に浸かり気味の田植えみたいな姿勢で汚泥の中をまさぐっていた。


「・・・・っ!」


 すると、指先に何かが触れた。ふちをなぞると、物体は掌サイズの長方体で中央には盛り上がった円形のツマミがあるようだ。それが解ったとき思わず自身のさとさにほくそ笑んだ。


 かつて電気による拷問を虫男が実施していたとき、必ず奴はエプロンのポケットに手を入れていた。つまり電気を流すスイッチに相当する何かが、過去あの虫男が変身した場所に残されているはず・・・というただの推測が的中したことに十分な満足感を得ながら、わたしは探し当てた通電スイッチをヘドロから引き揚げた、その時。


「イヤアァッ!」

「ぶべっ?!」


 忘れていたが現実というものは基本、無情である。頭の中では程近い薔薇色の夢、それを現実に当て嵌めた途端、星のように程遠くなる。望遠鏡の覗き穴なしでは、その輪郭すら定かでない。ゆえに空を見ずに地を見て歩く。それこそが地を這う虫なりの解脱げだつの道。


 わたしともあろう者がすっかり浮かれていたようだ。その結果、背後から襲来した甲高い悲鳴をあげる物体に背中を押され、むしろ夢であってほしいと願うくらいに汚らしいヘドロへ顔から突っ込んでしまったのだった。

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