第21話 置き去りにした記憶

 改めて不快に思う。おぼろげに何かを期待していた幼心と、ひどくワガママな失意や怒り。


 あの子はわたしを恨んでいるだろうか。いや、きっと恨んでいることだろう。鬱蒼とした落ち葉だらけの古い用水路の底で、今もずっと囚われたまま、わたしが来るのを待っているはずだ。


『レーカちゃん・・・もう帰ろ』


 誰かが死ぬたびに思い出す、あの子の影がわたしを呼ぶ。


「だいじょうぶだって!ほら、行こ!」

「お母さんに怒られる・・・」


 山岳さんがくの谷間に陽がすっぽりと収まったとある秋の畦道あぜみちで、子供たちが走っては立ち止まりを繰り返している。


 わだちの中央に生え吹いた金色のススキは、山間やまあいふたと化した暗雲にその輝きを追われつつ、木枯こがらしだけがサアサアとなびいて二人をより薄暗い雑木林へと手招く。


「ここ・・・危ないから近づいたらダメってお母さんに・・・」


 少年の消え入りそうなか弱い異議は風と少女の間に溶けて、あれよあれよと言う間もなくして行き着いたのは水深2メートルはあろうかの水路であった。しかし水路とは言っても変色した枯竹こちくや枯木にまみれた見てれは、むしろ自然の掃き溜めと見間違えるほどである。


 すると少女は水路に沿って季節の死骸の坂を登り、挑発的かつ声高に後ろの少年へ問いかけた。


「早くしないと夜になっちゃうよー?!」


 それを聞いてガックリと肩を落とした少年は、しばらくすると意を決したように前を向いて少女の後に従う。


 そしてやっと平地まで登ったとき、それまでなんだかんだ高揚しかけていた少年の顔に陰りが見えた。


「も、もう帰ろう?肝試しなんて・・・バチがあたるかもしれないし・・・それにお母さんとか、みんな心配するって」

「お母さんとかどうでもいいじゃん!」

「ダメだって!怒ったらすごく怖いんだから!」

「えー?・・・それならさ、帰る前に二人でお参りしようよ!せっかくここまで来たんだし!」


 そこにあったのは小さなやしろ。鳥居すら無く、枯れた広場にしんと佇む様子からは無性の物悲しさと冷たさが漂う。


 それが秋の風に運ばれて少年の上着の隙間に潜り込み、上振れ気味の気分と体温を引き摺り下ろした。


「・・・わかった、はやく終わらせよう」


 少年は必死に帰宅したときの情景を思い描く。台所から玄関まで真っ先に駆け寄ってくる飼い犬や、遅れて夕食の匂いをまとわせた怖い顔の母。そこから始まる叱責しっせきがどこか遠く懐かしい。


 そんな気持ちもつゆ知らず、一歩後ろの少女はジッとその雄々しい背中を見入っていた。そして二人は社の前に並び立つ。


「そ、それで何するんだっけ・・・?」


 緊張故か数十秒前の目的すら頭から抜け落ちていた少年は夕食の風景から、目の前に鎮座する社へと気を向けた。


「お参りなんだけど、えっとねぇ・・・うんとねぇ・・・どうやるのかなぁ?」

「知らないの?七五三とかでした事ない?」

「うん、おじいちゃんとかお父さん、みんな教えてくれないから」


 自分とは異なる生まれ育った環境に、多少驚きを交えつつ少年は参拝の音頭おんどを取った。


「ただ手を合わせるだけでいいと思うんだけどな・・・。とりあえず俺の真似してみて」

「わかった!」


 あえてゆっくりとした動作で合掌し黙祷もくとうする少年と、それを二度三度横目にして似た様な姿勢をとる少女。二人は静寂しじまの中でまぶたを目にして闇夜の世界へ思いを馳せた。


 するとなぜだか少年は、ひどくさもしい気分に包まれた。更には両親が自分と犬を置いて買い物に出たときのような身寄りのない軽薄さ、孤独感や得体の知れない猜疑心さいぎしんが遥か遠くの闇の方から一足飛びに去来したのだ。


「う・・・あ」


 そこで少年は思わず目を開けようとしたが、まぶたがのり付けされたかのように固着して開かない。そのうえ合わせたてのひらまでもがビッチリとくっついてしまっている。


「ッ!?な、なんでっ!?」

「・・・?どうしたの?」


 そして少女が隣に目をやると、そこには合掌したままうずくまり、懸命に親指の関節で自身のまぶたを擦り上げようとしている少年がいた。


「プフッ。何やってんの?変なのー」


 そのあまりにも奇妙な行動に少女笑ってしまったが、少年の方は尋常ならざる雰囲気で喚き始めた。


「あ、開かない!開かないんだよッ!!・・・い、嫌だ!嫌だ!嫌だ!」


 そうこうしている内に目尻の涙が赤く染まりだし、その顔中は淡い色の血にまみれた。けれども少年はいくら出血していようがお構いなしに、これでもかとまぶたを擦り続ける。


「だ、だいじょうぶ?」


 さすがにその異様な状態を目の当たりにした少女は、そんな彼をおもんばかるように合掌している手を握った。


 すると、それまで完全にくっついていた両手が不可視の呪縛から解き放たれたかのようにワッと開いたのである。


「嫌だ!来るな!」


 しかし目の方は未だ開かず、少年はひどく取り乱して何人なんびとも近寄らせまいと、自由になったばかりの腕を無茶苦茶に振り回した。


 そして乱暴に振われた腕は寄り添う者を巻き添えにする形で、傍にいた少女の頬をパチンとしたたかに打ち鳴らしてしまったのである。


「うっ・・・」


 そこでわたしは、ただ呆然と知らぬ間に小雨で濡れていく地を眺めて見ていた。


 今にして思えば、茶から黒へと染まる地肌に、白々しくも共感している自分を認めたくなかったように思う。当時のムカつきは全てあの子からもたらされたものであると信じ、そしてわたしは感情のおもむくままに怯える彼を置き去りにした。


 しかし深い用水路の底でうじにたかられる彼と再会したとき、そのしぶとくくすぶっていた感情は凍りついて、後悔と亡骸だけが痛々しくのこった。


 別にあの子を嫌ってたわけじゃない。ただわたしの前にいてほしかっただけ、護ってほしかっただけ。それが叶わなくて怒っただけ。


・・・そんなわたしを恨んでいるはず。だってわたしならそうしてるから。

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